おれおれ
携帯が鳴った。
話しかけてきたのは、若い女で、なんだか慌てた様子だった。
「わたしわたし。このまえはどうも」
“この前のわたし”とはいったい誰だろう?
僕は頭の中の顔写真を繰り、声の主を探した。
「ごめん、携帯洗濯しちゃって、メモリーが飛んだのよ」
「はあ・・・」
僕はまだ相手を特定できない。間違い電話じゃないのか?
「アドレス、もう一回教えてくれない?で、今度またお茶しようよ」
一瞬返事に困った僕に、“わたし”は馴れ馴れしく言った。
「あ、もう電車来る。はやく」
なんて一方的なんだ、こんなやつ知り合いにいたかな?
だけど“わたし”のせかし方が、まるでてきぱきした事務員のようだったの
で、その気迫に負けて、僕はとりあえずアドレスを告げた。
口頭でアドレスを伝えたことなんて、はじめてのような気がした。
僕はまだ相手が判らなかったが、こんなに馴れ馴れしいなら他人でも無さそ
うだ。もしかすると、ネットの知り合いかもしれない。
“わたし”は早口に確認し、
「ありがと、じゃね」
と愛想なく電話を切った。
その後、“わたし”から頻繁にメールが来るようになって、僕もなにげに差
障りのない返事を書いたりしていた。
“わたし”のアドレスには見覚えがなく、“わたし”が誰なのかも特定でき
ないままだったが、なんとなくメールのやり取りをするのが自然になってき
て、今更あなたは誰ですかと聞くこともできず、お互いを「きみ」「あなた」
と呼び合ったまま、何ヶ月かが過ぎた。そうしているうちに、僕らは気心の
知れた古いカップルのようによい関係になり、街で実際に会うことになった。
黒いパーマっけのない髪を後ろできゅっと結んだ“わたし”に、僕は見覚え
がなかったが、真っ直ぐに僕を見つめる目がとても素敵で、僕はあらためて
恋に落ちた。
今から思えば、見事に落とされたのかもしれない。
“わたし”がパソコンを持っていなかったことを、僕は“わたし”と結婚し
てから初めて知った。
ある日、僕は洗濯物を干している“わたし”に、勇気を出してきいてみた。
「携帯を洗濯しちゃうことって、よくある?」
“わたし”は洗濯物をパンパンと元気に叩き、
「ないわよ。一度だって。ばかね」
と、大きなお腹で嬉しそうに笑った。