「誰かのため」と言えなくて別れた人がいた
夕方の校舎内は静かだった。グラウンド側の手洗い場の窓から、部活動をしている生徒の声が聞こえる。おーい、おーい。本当は何と言っているのかわからないが、自分にはそう聞こえる。
おーい、おーい。
そんな呼び声はいつだってどこか明後日の方に飛んで行き、自分はそれを眺めるだけだ。
花瓶から紫のカキツバタを取り出し、水をあける。花瓶を洗って、新しく水を入れて、枯れた花はよけて、まだ綺麗な花を花瓶に戻す。枯れた花は近くのごみ箱へ。ごみ箱の中で昨日捨てた花が茶色に変色していた。生っぽい独特の異臭が鼻をつき、ほんの僅かに顔をしかめた。また新しい花を持って来よう。家の裏にはまだまだカキツバタが咲いている。機械のように続く母のルーティンワークの中で、花を育てることだけは好ましく感じていた。吹き込んで来た風は、昼間に暖められた空気より少し冷えていた。春の優しい匂いが冷笑を浮かべる。それにこちらは好意的な笑みを返す。
おーい、おーい。
そして、あずかり知らぬ方向に向けられた声をぼんやりと聞いていた。
「よ、えらいね。大和撫子」
突然、肩越しに顔がひょいと現れた。大きめの口で二カッと笑った女の子の声にも顔にも馴染みはない。それなのに驚くことがなかったのは、自分があまり動じない性分であることと彼女の気安い雰囲気、そして、クラスメートの三崎理子であることに気付いたせいだろう。
「やーやー、偉いね。花の水換えですか。係でもないのに」
「俺が持って来た花だから」
「そうそう、係の人って花持ってくると仕事できるから嫌な顔するし。って、大和撫子って言ったことにはノーコメントですか、鈴原くん」
明るい声が静かな校舎にやたらと響く。耳が痛くなるような声を聞きながら、彼女をじっと見ていた。彼女が顔を覗き込んで「無視?」と言うまでそうしていた。そう言われてやっと、
「なんて返せば良いのかわからなかった」と言った。
それは本当だった。授業以外では声を発することさえ稀なのだから、誰かと話すことなんてほとんどないのだ。部活をしていた頃は部員内で何かしらのやり取りはあったが、三年になって受験勉強のために辞めてしまった。
彼女は特に気にする風でもなく、ふーんと呟いてその場で小さく円を書くように歩いた。少しもじっとしていられないようだ。その間も何が楽しいのか笑顔を絶やさない。
「ほんと無口だよね。無口だし、真面目だし。嶋田、あ、陸上部の嶋田ね? が、鈴原くんが辞めて仕事増えたってぼやいてたよ。そりゃあ、他の部員の面倒から、片づけから、何でもやってくれる副部長がいなくなれば、部長さんも忙しくなるよね。今まで楽してた罰だよって言ってやった」
そして、またニッと笑った。クラスの男子から可愛い部類だと評価されるその顔もそんな風に笑うと崩れてしまう。
「何か用?」
そんな彼女に問いかける。
「ひどいなあ、クラスメートに話かけたらダメ? あ、邪魔だった?」
「そういうわけじゃない」
思っていることなら口に出すのは容易い。何も考えなくて良いから。ただ、即答したことが彼女には意外だったらしく、きょとんとした。でも、またすぐに笑う。
「鈴原くんって可愛いねえ。嫁にしたい」
どう返そうかと考える間もなく、「あ、応えに困るよね」と彼女の方からさっさと切り上げてしまった。
その後も続く一方的な会話──そして、人一人分を開けて向かい合う自分たちがいた。
がらんどうな空間に自分と彼女。
その異質さは、肌触りの悪い空気が肺を内側から撫でるようで、でも、不思議なことに、今日も何もない、そう思った。窓枠の影が牢屋のように絡み付く廊下には、ただ、自分と、蛇口から滴る水の音と、腐った花の臭いと、笑顔の彼女しかない。
少し強く吹いた風に乗って来た砂で舌先がざらつき、窓に手をかけた。今日も帰れば、温かい夕飯があって、父が定刻に帰って来て、親子三人の食事が共同のルーティンワークとして繰り返される。遠い声を聞きながら、なんとなくそんなことを考えて窓を閉めた。
「帰ろうか」
長距離中継でもしていたのだろうか、明るい声はずいぶんと遅れて自分の耳に届いた。
銀行員の父と主婦の母、特別目立つ存在ではないが問題も起さず、品行方正な息子。自分たちは普通の家族だった。両親だって町内の行事には参加し、役員もきちんとこなす。そうして社会に溶け込んでいた。
ただ一つだけ。父も、母も、少しだけ繊細で、少しだけ弱く、少しだけこの無味乾燥な世界に「救い」を求めていた。
その「救い」を与えてくれる人がいた。誰が何と言おうが、父と母には彼の言葉は「救い」だった。それなら良いかと父と母の背中を見ながら、幼い自分は思っていた。
思っていた──はずだった。
「でねえ、そこで横山の奴が──」
隣りで靴を履き替えながら一瞬の間もおかずに三崎理子はしゃべり続ける。無口な自分にはある意味感嘆すべき能力だと思う。彼女の話の中にはクラスメートがまんべんなく出て来る。誰それと誰それが付き合っているなどというありがちな話もあれば、実は、誰誰にはこんな特技があるのだと、クラス長のプラモデル技術のすごさを語っている。さっきは、図書委員のあまり目立たない女の子がクラス合唱でソロをすることになったのだと言っていた。彼女が推薦したのだという。
周囲の知らない、クラスメートの特技をなぜ知っているのか。真面目を絵に描いたようなクラス長にプラモデルの趣味があると、本人は知られたくなかっただろう。だが、それを彼女には話せたのだ。そして、幼い頃から合唱団にいたのに、物怖じして打ち明けられなかった女の子の歌の巧さに気付いた。
彼女がいつも人の輪の中心にいる理由がわかる気がした。ただ賑やかに笑顔を振りまくだけではなく、人をよく見ているし、よく理解している。彼女が話している間に思ったことは、そんな自分でも呆れるほど味気ないものだった。
ふと、くるくるとよく動く彼女の瞳がひたりと自分に制止した。その一瞬だけ、なぜだか自分の目を見ているような気になった。ガラス玉のような眼球に、景色の一部となって自分が映る。だが、すぐに自分とは違う明かりがその目に灯った。
「ごめん、つまらなかった?」
にっこり笑って尋ねる彼女に、一応、首を横に振って否定しておく。
「そ、良かった。あ、鈴原くんってさ、家は駅方面だよね?私もそっちなんだあ、いっしょに帰ろ」
踵を踏みつぶしたシューズを履いていて、うつむいた顔を上げる。
「別に良いけど」
「やった」
「家、そっちだったのか?」
「ううん、違うんだけど、用事があって……あ、まいちゃん! バイバイ!」
ちょうど楽器を抱えて通りかかった吹奏楽部員の一人に手を振る。声をかけられた女の子もバイバイと叫んで手を振った。それを見て疑問が浮かんだ。
「部活は休み?」
友達を見送ると彼女はこちらを見た。
「私、部活してないよ」
自分の顔にそう書いてあったのか、珍しいでしょ? と言った。
珍しい。普通の公立校がそうであるように、この中学校でも大多数は何かしらの部に所属した。小学校からあまりメンバーが変らないと、強制でなくとも、周りが部に入れば、自然とそれに倣うようだ。入っていないだけで異質に見られる。特に三崎理子のような皆の中心にいるような人物は倣われる側で、彼らも自然と自分の役割を知っている。その学校で力のある部に入り、皆が倣い、そして、ますます力を持つ。社会ではどこにでも見られるそういうサイクルがすでに始まっているのだ。だから、珍しい。その思いをどこまで読みとったのか、「塾に行ってるから」と理由のような、そうでないようなことを言って、彼女はまた笑った。
「じゃあさ、鈴原くんはなんで部活辞めたの?」
逆にそう訊かれたのは、校舎沿いに二人並んで歩き始めたときだった。自分が驚いたのは認識していた。それが見ためにも現れたのだろう、目を丸くする自分を見て、可愛いと彼女は言い、それで満足してしまったらしい。それ以上は訊かなかった。
ワンテンポ遅れて、言い訳がましく「受験勉強のために」と乾いた口から言葉がこぼれた。その声をうまく彼女は拾ってくれた。ふーんと呟き、顔を覗き込んで来た。
「じゃあ、いっしょだね」
イッショダネ。その音に胸の奥がじんと痺れた。痺れが指先にまで届き、その感覚を紛らわせようと指同士を擦り合わせた。
「いっしょ、か」
「うん、いっしょ」
すごく嬉しそうに彼女は繰り返した。
胸が疼いた。
今までなんとも思わなかったのに、なぜだか、彼女の笑顔に抜けていた痺れが舞い戻って、ごまかせなくなった。ぎこちなくも顔をそむけたのは、そのせいだ。
グラウンドと反対のこちら側はとても静かだ。先程の吹奏楽部の集団だろう、楽器の音だけが遠くから耳鳴りのように聞こえる。いくつかの部屋では外より少し明るくなった室内で、僅かな人影が見えた。だが、どれもが薄い膜の向こうにあるように、曖昧な印象を感覚に訴えるだけだった。
それらを背景にハナミズキが咲いている。ピンクと白と。その足元にはツツジ。グラウンドの周りにある桜はとっくに散り、それはそれで若葉が美しいが、この色彩は今はこちら側の領分だった。桜が散るのと同時に部活を辞め、帰宅部となって今はこちらで花々を眺めている。
「花、やっぱり好きなの?」
彼女が問いかける。
「好きだな」
花に視線を向けたまま、耳に滑り込んで来た問いに呟くように答えた。すると、彼女が体ごと回り込んで、植木と自分の間に割り込んだ。
「ねね、今のもう一回言って」
顔を輝かせて言う。首をかしげて理解できないことを示すが、おかまい無しに言って言ってと連呼する。反応できない自分にぴっと人差し指を突き付ける。
「今みたいなのは女の子を前に言うべきなのだよ。わかるかい? 鈴原くん」
「わからない」
「今のね、今の鈴原くんの「好きだな」って言い方、すっごくカッコ良かったの。女の子が言われたらクラッときちゃうよ、絶対。ねね、だから、言って」
それでなぜ言ってというお願いに繋がるのかわからない。だが、彼女は言うだけ言うと、ノリが悪いなあと笑いながら先に歩き出した。左にハナミズキとツツジ。右から夕日。ツツジに彼女の影が滑る。背中が校門に向かって行く──
気づけば、いつも背中を見ていた気がする、父と母の背中を。遠い過去には隣りで手を引かれていた。でも、その内、二人の横顔は見えなくなった。二人の向かう先には別の人がいた。
彼の屋敷に行く途中にもハナミズキがあった。ツツジがあった。少し高くなった朝日では、ツツジの上を滑るには影は短すぎた。そんな様子を二人に付いて行きながら見ていた。彼の家は大きな屋敷で、でも、同じように大きな庭には花の咲く木がほとんどなくて、だから、途中の道沿いに咲く花をゆっくり見ていたいのに、二人は先にさっさと行ってしまう。気づけば、二人の背中はいつも遠かった。
ぼんやりと見つめる景色の中で、遠ざかる背中がくるりと向こうを向き、彼女が振り返る。どうしたの? と言わんばかりに、くてんと肩ごと首を傾ける。そして、歩み寄って来る。歩みよって来て、どうしてか、自らは迎えにいけない自分に手を差し伸べて、
『ひろちゃん』
と呼びかけるあの人の顔しか、あの頃は見ていなかった。
彼の屋敷には、父と母以外にも近所で見たことのある大人が何人も来ていた。そこで彼の話を聞くのだ。仏間のような部屋には、しかし、十字架が飾ってあり、ジーザスという言葉を何度も聞いた。周りの大人が真剣に耳を傾ける中、自分には話の中身は何一つ頭の中に入らなかった。渡された手作りの聖書は、有名な言葉も並んでいたが、彼独自の言葉が多かった。
それを一度、父が牧師をしているという当時の同級生に見せたことがあった。彼から見せられた彼の父は、なんだ、このデタラメはと憤慨したらしい。優しく正義感のある彼は憐れな同級生の自分にこんなもの信じるなと声高に言った。信じるどころか、何を言っているのかさえ理解できていなかった自分には何の支障もなかった。だけど、これが、父と母の「救い」だった。
皆で聞く話の後、一部は部屋を移動する。お金を払って特別にまた話を聞くのだという。父と母もその一部で、部屋に入ると何時間も出てこない。その間、自分は縁側に座って庭を眺めながら過ごすのだ。松など、花の咲かない、それも常緑樹の変化の少ない木ばかりの庭はつまらなかった。だが、じっと見ている。その内、木々の間から白い色が見えると、心の中では喜んでいるのに、体が硬直する。白い服を身に付けることが多かったあの人は、自分を見つけると、ぱっと表情を明るくして、こちらに早足で駆け寄って来てくれた。そして、『ひろちゃん』と呼んで、その手を差し伸べて頭を撫でると、ぎゅっと抱きしめてくれた。その時になってやっと動けるようになる。最初に動くのは腕で、抱きしめ返し、次に動く口で呼ぶ、『アキちゃん』と。
八歳で初めて会ったとき、まだ成人していなくても、高校を卒業していたアキちゃんを、幼い自分がそう呼ぶのは変だったのかもしれない。だが、『アキお姉ちゃん』でしょと正す人もおらず、アキちゃん自身がこの呼び方を望んだのだった。
『ひろちゃんは寂しい? お父さんとお母さんがここにいなくて』
自分は多くの質問に答えなかった。答えなくても、アキちゃんが答えを与えてくれた。
『でもね、ひろちゃんのお父さんとお母さんは、神様みたいにね、もっともっと、ひろちゃんや他の人を愛せるように、みんなのために何かできるように、誰かのために生きられるように頑張っているの。それはすごく素敵なことなの。だからね、ひろちゃんもそんなお父さんやお母さんを愛して、二人のために生きてあげてね』
父と母に救いを与えてくれた人の顔を思い出すことはできない。彼より、むしろ、ぬくもりを与えてくれるアキちゃんが「救い」だった。子が、母親から抱きしめられることで愛を学ぶなら、それに近い感情を自分が辛うじて持つことが出来たのは、アキちゃんのおかげだ。アキちゃんは、その意味で自分にとっての聖母で、顔もわからない彼の落とす言葉より、アキちゃんの言葉こそが神の言葉だった。
毎週日曜日のその時間は、自分にとって、よくわからない話を聞く時間ではなく、アキちゃんに会う時間だった────小学校を卒業するまでは。
伸びて来た手は頭に置かれた。「ぼーとしすぎだよ、鈴原くん」と幼い子どもに言い含めるように彼女は言って笑った。自分のくせ毛に指をからませるようにして、彼女は頭をなでた。アキちゃんも似たような手つきで頭をなでた。細く白い、骨のような指で、隅から隅まで愛でるように、何一つ取りこぼさないように。ゆったりとしたその動きを、しかし、幼い自分は、細い細い蜘蛛の糸をたぐっているようだと思っていた。
それを思い出した瞬間、言葉が口をついて出た。
「誰のため」
頭の上で手の動きが乱れる。髪の毛がからまって、少し痛みを覚えた。
「え?」
彼女の手が止まり、自分から離れて浮く。
その僅かな隙間に、磁石が反発し合うような何かがあった。それは、自己防衛のために「同類」がお互いの間に挟む何かだった。
『誰かのために生きなさい』
その言葉は、「救い」であり、また、「呪い」でもあった。頭にも、体にも、染みついていて離れない。
彼が言った。父が、母が、あそこにいた誰もが言った。何より、アキちゃんが言った。だけど、染みついても、響きはしなかった。素晴らしくも美しい、神から与えられたその言葉は、人間が言うとだめらしいのだ。その言葉を呟くときだけは、アキちゃんの顔でさえ見えなくなった。みんなが同じ声音で、同じ笑顔で、同じその言葉を口にする。アキちゃんのいる鮮やかだった世界から、一瞬にして色彩が消える。それが耐え難かった。
最初はたぶんそんなことは考えていなかった。ただ中学校に進学して、皆が部に入った。だから、普通の家庭の子どもであるべき自分も部に入るのが当たり前なのだと思った。そして、陸上部に入った。すると、練習や大会で日曜日にも部活動はあった。
厳しい部ではなかったから、日曜日だけ休むのは可能だったのだ。だけど、自分が選んだのは、あの屋敷に行って、話を聞いて、アキちゃんに会うより、部活に参加することだった。
ため池のような場所でぐるぐるしていた自分は、流れに身を任せ、外に出たのだった。
部活が休みの日曜日に一ヶ月ぶりに会ったアキちゃんは、烈火のごとく怒った。でも、燃え尽きた後のアキちゃんは言ったのだ。その場所で、
『誰かのために生きなさい』と。
流されたのだとしても、自分はあそこから離れた。生きる場所を変えた。
突然の問いに彼女のペルソナが剥がれ落ちる。初めて彼女の顔が美しいと思う。それは笑顔ではなく、「剥がれた」という言葉がぴったりなほどに崩れた笑顔の下の戸惑いの表情だったのに。
でも、それが初めて見せた「三崎理子」だった。
「そんなに誰かのために何かしないと、生きられない?」
言いながら、もしかしたら、あの頃もアキちゃんに自分はこう言いたかったのかもしれないと思った。
彼女ははっとした。彼女の顔を見て、でも、やっぱり、アキちゃんのこんな顔見たくなかったから言えなかったんだと思った。それに、その生き方は──
「俺には出来なかった……」
頭から離れた彼女の手は宙を彷徨った。そのまま離れていくだろうと思ったその手は、付かず離れず下りていき、そして、自分の何も持っていない空の左手をかすめて、手首の辺りに行きついた。指をからませて、彼女はそのまま歩き始めた。それに従い、ぱっくり口を開けた校門から外に出た。後ろから追いかけて来たトランペットの音がそこで途切れた。
引かれるままに斜め後ろから見ていた彼女の顔が、今は横にある。その顔の半分は茜色に染められていた。そして、影になったもう半分は、燃え尽き、炭化した昏い街並みのように、静けさが降り注いでいた。視線に気づいた彼女が苦笑交じりに見上げてきた。
「この歳で女の子と手を繋ぐのはお嫌でしょうか?」
ふざけて言っているようだが、先程のような軽快さはない。それに手を繋いでいると言っても、すぐに振り払える力で彼女の指が自分の手首に引っかかっているだけだ。
彼女は沈黙した。引っかかる指は掴むことも、離れることもなかった。
あの屋敷に今までと同じように向かう父と母、二人に背中を向けて家を出る生活は一年ほどで終わりを告げた。
ある日曜日の朝、二人は家を出なかった。出ずにテレビを人形のような白く、無気力な顔で眺めていた。その時に初めて父と母が「救い」を失ったことを知った。脱税というひどく滑稽な理由で、世界の理を語っていた彼はこの国の法を犯し、連れて行かれた。そして、そのまま姿を消した。
「救い」が消えた後、二人は傍目には恐いくらい、その前と変わらなかった。空いた日曜日、先に動いたのは父で、家の掃除を始めた。洗濯や料理、母の仕事を侵していった。その母は追い出されるように外に出て、花を植え始めた。家の周りが花でいっぱいになるのに時間はかからなかった。その花を家族三人で眺めた。
この花に何の意味があるのだろう、目を皿のようにして見つめる二人の目はそう語っていて、それがいつの日か、自分たちに何の意味があるのだろうと語り始めることを恐れて、自分はその花を摘むようになった。摘んだ花をどうして良いのかわからず、ちょうど玄関の掃除をしていたお隣りさんにあげた。そのお隣りの奥さんも、あの屋敷で見かけたことがあった。彼女も変わらず、いつものように人の良い笑顔を浮かべていた。反対側のお隣りさんにも、向かい側の人にも花をあげた。そして、それでも咲いている花を学校に持っていくようになった。そうすると、ますます母は花を育てるようになった。
あのおうち、いつも花が咲いていてきれいね。そう言われるようになったことが、目に見える唯一の変化だった。
「救い」がなくても、社会という水槽で呼吸する方法を身につければ、考えずに生きていけた。父も母も、あの屋敷にいた大人たちも皆、呼吸する方法をすでに知っていた。
こんにちは。まあまあ、大きくなって。いくつになるのだっけ、ああ、もう、そんなになるのね。ご両親は元気かしら。それは良かったわ。よろしく伝えてちょうだいね……
だけど、ただ一人、アキちゃんが──いない
彼女が何を望んでいるか、言葉にされるよりも自分にはわかりやすかった。言葉に頼れない自分だから理解できた。
引っかかっている手を握る。すると、彼女は立ち止った。「まいったなあ」と泣き笑いを浮かべて呟く。
「まずったなあ……私、人を見る目はあると思ってたんだけど」
そらした喉がひくりと震えた。濡れた瞳がガラス玉のように光った。
オナジダネ
あの時の言葉が脳内で響いた。「鈴原くん、知ってる?」彼女が言う。
「噂ってね、どこまでも歩いて行っちゃうんだよ。そして、会ったヒトみんなに歌うように囁いていくの。『鈴原さんのご家族を知っている? あの怪しげな屋敷に出入りしていたらしいわよ』ってね。でも、あんまりにも自然に囁いていくから、その意味を誰も考えないの」
正直、少し驚いた。だが、あれだけ毎週のように行っていれば、隠しきれないのは当然だろう。それでも、今までやっていけた。それは、きっと、他人には、
「どうでも良いことだから……」
「鈴原くんのことだけじゃないよ。みんな、他の人のことなんてどうだって良いんだ。そして、知ってるの、『他の人にとって自分がどうでも良い』ってこと。そうやって、みんな、一人で『独りぼっち』になっていく……」
「かわいそうだよね」と無感情に彼女は言った。
かわいそうなのは彼女だと思った。彼女は、『みんな』の中に自分が入っていることを知っている。無知になれない。盲目になれない。そんなかわいそうな人間だと知らずにいることができなかった。無感情な横顔が、彼女の感情だった。
気のきいた言葉が思いつかず、「かわいそうだな」と同じ言葉をただ繰り返した。
それを聞いて、彼女がふわりと微笑んだ。それは人形のように愛らしい笑みだった。
「ねえ……『いっしょだね』って、本気だったんだよ」
そして、囁かれた言葉は愛らしいのに、なぜだかひどく切実で、残酷な響きを持っていた。彼女が前を向く。あまりに明るく笑うから、顔をそらしたのだとわかってしまう。
「私ね、独りぼっちの人がわかるの。でも、……間違えちゃった」
そして、ますます悲痛に囁くのだ。
「俺はひとりだよ」
慰めたつもりはなかった。本当にそう思っていた。だけど、彼女は髪を振り乱して、ぶんぶん頭を振った。
「ううん、『独り』じゃなくて、『一人』を選んだんだよ……」
そして、気づく。彼女は、あの頃の自分であり、アキちゃんだと。
「『救ってあげたいから、寂しい人を連れて来なさい』って、あの人たちは言うんだ。わかってるんだよ。あの人たちは本当に善意から助けたいだけ、救いたいだけ……わかってる、わかってるけど、それならさ、」
先に私を助けてよ
自分の手の中で、強張り動けなくなっていた小さな手が開かれていくのを感じた。彼女の指先が触れた部分が痺れて、胸が震えた。この震えは、彼女に伝わっているのだろうか。彼女が外へ必死に手を伸ばしていたのだと知る。
そして、伸ばした先が自分なんて、なんという皮肉だろう。
ぐっと空を仰いだ。昏い街並みから、細い電線が空に伸びて絡み合っている。そして、広い空を細切れに切り刻んでいた。口を開けて、その小さな空の一つ一つから酸素を貰って呼吸する。
あれはいつだったか。部活を終え、下級生と片づけをしていた。日が落ちかけていて、春といっても、その時間帯はまだ肌寒くて、汗がすっと冷える感覚がして、ハードルを抱えたまま、ふと空を見上げた。太陽は隠れてしまったが、まだ夜は訪れていない、ねずみ色のような、水色のような、そんな取り残された色が周りに刷かれて曖昧だった。音さえも遠かった。
おーい、おーい。
それでも、誰かの誰かへの呼びかけは聞こえていた。どこかあずかり知らぬ方へと向けられた声を、空を見上げながら聞いていた。だけど、本当は自分に向けられることを願っていたのかもしれなかった。伸ばせないこの手の代わりに、誰かが手を伸ばしてくれることを願っていたのかもしれない。アキちゃんがそうしてくれたように。
その時見ていた空は、今見ている空のように砕かれていなかった。まだ広いままだった。だけど、なのか、だから、なのか、その時、思ったのだ。
苦しい、と。
気づいたら、隣りにハナミズキがあった。
じっと見ていた。まるでそうしていれば、あの頃のようにアキちゃんが現れるとでもいうように。そんなことあるはずもないのに──そうして、風に揺れるハナミズキを見つめていた。その下で、ツツジが蕾を綻ばせているのに気付いた。
それだけで楽になった気になれたのだ。
浮き沈みを繰り返し、いつの間にか、自分は部を辞めていた。受験勉強のためだと言えば、誰も反対しなかった。担任も、顧問も、部の仲間も、背を向けて土をいじる母も、メガネの奥で何も見ていない目をむける父も、何も言わなかった。
そんなものだと、なんだか無性に可笑しかった。そして、ぷくりと吐き出した思いが、音もなく消えていくのを眺めながら、今という瞬間を意味も確かめずに吸い込んだ。酸欠の脳はそれだけで満たされたと勘違いしてくれた。だけど──
彼女の手を握る手に力を込める。同じ力で彼女も握り返してきた。お互いに握り直す動作を繰り返し、それは溺れかけ、藁にすがりつこうとしているかのようで。
足掻いていた。
「俺が選んだ。でも……」
『会いたい』
横で、彼女が震えながらも吹出した。
「ひどいなあ、隣りにいる女の子無視して、別の人のこと考えてるの?」
彼女の物言いに苦笑がこぼれた。
「ごめん。でも……『会えないから』」
そっか。それだけ言って、彼女はそれ以上何も訊かないでいてくれた。彼女らしい気遣いが有難かった。自分は、繋ぎ止めようとする彼女の手を、今だけはと押し込めようとしているのに。
『アキちゃん……』
心の中で何度も呼んだその名前を口にする。何度も何度も呼んだ。その後に続ける言葉も見つからず、あの頃は自分から呼びかけることさえできなかった名前を、ただ呼び続けた。まだ手の届くところにいてくれていると願っていた。俯く自分を抱きしめてくれることを望んでいた。逃げ回っても、否定なんてできるはずなかった。
でも、気づいてしまった。
もう、会えない。
これが自分に許す最初で最後だとわかった。伝えることは叶わない思いが、しゅわしゅわと溶けて気泡になっていく。
最後の一息が、開いた口からぷくりと吐き出され、ふわふわと漂った。そうして、視線が追いかけた先──
「あいたかった」
弾けた。
何度も続いていた握り直す動作が、前触れもなく止まった。地に落ちる二人の影だけが一つになっていたけれど、それ以外は何一つ同じにはなれない。まるで、それを突然悟ったかのようだった。
同じく突然に、隣りで彼女がくすくすと笑いだした。とても軽やかに、とても楽しそうに、とても穏やかに。その笑い声を聞いている内に、つられて自分も笑いだしていた。
笑って、笑って。彼女が笑いながら泣きだしたから、自分もつられて、涙を流して笑い続けた。そうして、ひたすら二人で笑って、泣いた。
彼女が大きく息を吸い、遠く、遠くへ呼びかけるように「鈴原くん」と叫んだ。
「あしたもいっしょに帰ろうね。あさっても、しあさっても、次も、その次の日も、ずっと、ずっと──」
別れる日まで
隣りを見ると、見つめ返し、「理子」は笑った。その時、自分はどんな顔をしたのかわからない。だけど、笑っていれば良いと思った。
ため池から出た自分は、なんとか喘ぎながら呼吸だけはしている。だけど、「あの人」はあそこでしか呼吸する方法を知らなかったのだろう。それがかわいそうで、うらやましくて。でも、それが、自分が選んで置き去りにしたものだった。
つないだ手は指きりの代わり──はかない「未来」の約束は、これまで吸ってきたやさしい「過去」と「今」とは別の味がした。燃え尽きた空で、弾けた思いが、遠くきらきらと輝いていた。
そんな空の下、握っていたものを過去にして、二人、ぎこちなく手を取りあい、足音が鳴った。
終わり