チェリー、16歳没(2)
染井良乃。当然のように私の本名を言ったこと。当然、このオバサンと私に面識はない。私の家の近所にも、学校にも、友達のお母さんにも、こんな人はいなかった。
「どうして私の名前を知ってるんですか」
できるだけ、恐怖を押し殺して冷静な声で訊いた。
頭の中を、いろんな考えが巡った。やっぱりこの人、誘拐犯か何かじゃないの? 優しそうな顔してるけど、私の名前を知っていて、しかも車に連れ込むなんて。
「情報は全て預かってるわ。染井良乃、高校2年生。16歳没」
まるで資料か何かを読み上げるように抑揚のない声でオバサンが言った。
え? でもちょっと待って。オバサンの言葉に、引っかかりを感じた。
「ぼつ?」
私が問い返すと、突然オバサンが私の両肩にやさしくその手を置いて、そして私と目をじっと合わせてから口を開いた。オバサンの瞳がとても悲しい色を帯びるようだった。
「いい? 良乃ちゃん、よく聞くのよ。あなたはね……」
なにか言いにくいことを言うときのように一瞬だけ口をつぐんで、それからまた、決意したように微かに息を吸ったのが分かった。
「あなたはね、さっき横断歩道でトラックに轢かれて死んでしまったの」
車内がしんと静まり返った。
誰も何も言わない。オバサンも、運転手も、そして私も。ただ、車のエンジン音に、定期的に起こる小さな揺れと同時に発される音が混ざり合ってひびくだけだ。
やっぱりこの人、ヤバい。私はますますこのオバサン、それから運転手からも離れようとドアのほうに身を寄せた。
私自身の知らない間に私を車に連れ込んで、しかも「あなたは死んでしまった」なんて訳の分からないことを言いだして、それを聞いているはずの運転手は何も言わない。これって、絶対にヤバい。
私は車のドアノブに手を掛けて、今すぐに扉を開けて出ようとした。けれど、ロックでもされているのか、押しても引いてもドアはびくともしない。
「無駄だよ。扉は開かない」
力ずくでドアを開けようとしていたとき、ふいに前方から低い声が飛んできた。さっきまで黙って私たちの話を聞いていた運転手が初めて口を開いたのだった。
「外を見てごらん。こんなところから外に出る勇気はあるかい?」
外? 私は訝しく思って、言われたとおりに窓の外を見た。そういえば、さっきからどこを走っているのかよく分かっていなかったのだ。
この光景。窓の外から見えるこの光景に、私は見覚えがあった。
それは中学校の修学旅行で飛行機に乗ったときのこと。友達といっしょにきゃあきゃあ言いながら見た窓の外……。
「まるで空の上みたい」
思わず声に出して言った。だって、あまりにもあの、修学旅行のときに見た光景に似ていたから。
まるで視界全体が霧がかったかのように真っ白な雲。それを突き抜けると今度は、つらいことを乗り越えたあとみたいに美しい青空の世界が待ちわびている。
もっとも今は夜で、待ちわびていたのは吸い込まれそうなほどの幻想的な黒の世界だったのだけれど。
「そうよ、良乃ちゃん。ここは空の上」
冗談半分で言ったつもりだったのに、オバサンはいたってまじめな調子で答えた。
私は、電車ではしゃぐ子供みたいに窓ガラスに額をくっつけて、窓の外を目をこらして見つめた。
ありえない。空飛ぶ車なんて、そんな一昔前の近未来SFマンガのような話。でも実際に、窓の外には建物一つなくて、道路さえ見えず、夜空のように深い闇がどこまでも続いていて、ときどき星のような小さな光も見えた。
「この車はいま天国に向かっているの。大丈夫、怖いところじゃないわ。街はキレイだし、お店もいっぱいあって飽きないし、とっても良いところよ」
私を少しでも安心させようとしたのか、オバサンが笑いながら言った。
天国。私はさっきオバサンに言われた言葉を思い出した。「あなたはね……、死んでしまったの」