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息をすれば生きることができる

作者: 小雨川蛙
掲載日:2026/07/02

 

 7月にしては涼しい。

 いや、寒いくらいだろうか。

 朝も、夜も。


 昨今の夏は5月から汗が出るほどの暑さが続いていたけれど、今年はエアコンも不要なくらいだ。

 私が子供の頃もこんな涼しさだった気がする。


 涼しさ。

 いや、暑さだろうか。


 無意識に選んだ言葉が時間が流れていることを感じさせる。

 そうだ。

 私はもう子供ではないのだ。


 死にたい。


 子供の頃はすぐに口に出していた気がする。

 苦しいと言っていた気がする。

 いつの間にか口にするのを辞めていた。

 何故なら、私はもう大人だから。

 口にしたところで実行せねば死ねないなんて分かりきっていたから。


 時刻を見る。

 時間はまだ午前3時50分ほど。

 夜9時に寝るようになってからどれだけ経つだろう。

 早い目覚めでも二度寝をしなくなってどれだけ経つだろう。


 息を吸い、吐く。

 体にスイッチをいれるように。

 社会人の私は実際の私と違い元気いっぱいで悩みのない人間として扱われているらしい。

 けれど、そう演じるには長い準備時間も待機時間も必要なのだ。


 息を吸い、吐く。

 頭の中身は子供のままなのに、やり過ごし方だけは覚えてしまった。

 あるいは滞りなくやり過ごすのが大人なのかもしれないと当たり前のことを、さも初めて知った事実のように受け止め、言い聞かせる。


 身を起こし、シャワーを浴びた。

 少し寒いけれど、7月であることに感謝しながら。


『私。うつ病なんです』


 先日、部下がそう告白をしてきた。

 話してくれたことを嬉しく思う。

 素直にそう伝え、何かあったら相談してほしいと伝えた。

 けれど。


『あまり人には言わない方がいい。ろくなことにならないから』


 告白は色眼鏡を掛けて見られる事になるということだけはしっかり告げた。

 世間はそのような病や障害を受け入れるように形作られてきているけれど、それが全て見せかけだけであるのは社会人をしていればすぐに分かることだ。


 彼女には言わなかった。

 その告白はつまり配慮してくれという言葉になるのだと。

 そして、社会は。

 人間は。

 わざわざ配慮しなければならない状況を厭う。


 刺激が強い事実を今は語るまい。

 彼女は勇気を出して教えてくれたのだから。

 代わりに。


「私もだよ」


 シャワーの音に紛れながら一瞬過去に浸るように声を出す。

 別の会社だけれど休職もした。

 一日の二十時間以上、体がベッドから動かなかったこともあった。

 トイレとベッドしか移動できなかった日々も、何を食べていたかも、飲んでいたかも、分からない日々が一年半ほどあった。


『どうやって立ち直れたんですか』


 部下の、後輩の、もしくは同志の言葉に私は返した。


 息を吸い、吐く。

 それだけをしていた、と。

 あの日々のことは何も思い出せないけれど、きっとそれだけは確かだったから。


『前向きになれたのですか?』


 縋るような問いに答えた。


『もちろん。少なくともその時よりは前向きに』


 多分、嘘。

 私は何一つ前向きになっていない。

 毎日死にたくて仕方ない。

 事故に合わないかな、なんて思いながら出社して帰社する。

 突然、難病にならないかな、なんて想像しながら日々を生きる。

 眠りにつく時、目覚めなければいいのに、と呪いのように願いながら眠りにつく。


 それでも。

 息を吸い、吐く。

 生きていたくなんかないけれど、これをすれば生きていける。


『生きていれば事情は変わるよ』

『変わったんですか?』

『もちろん。前向きになれたよ』


 生きていれば年を取る。

 否応なしに。

 年を取れば死が少しだけ近づく。


 二十代までは死がずっと遠いものに感じていた。

 自分が何か、大変なことをしなければ決して届かないものだと思っていた。

 けれど、今ならわかる。


 死は歩んでいく道の先にある。

 ――だから、安心していい。

 私はいずれ死ぬのだから。


『何かあったらいつでも相談していいよ。話くらいは聞けるから』


 そう言ったところ、交換をせがまれたLINEには。

 私は当たり障りのないことを書くばかりだ。


 時刻は6時45分。

 今日も一日が始まる。

 だから、私はまた息を吸い吐く。


 ひとまずは今日を生きるために。

お読みいただきありがとうございました。


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