一年間モラハラされた子爵令嬢、婚約者を豚小屋送りにする
王都で最も格式高い舞踏会の夜、ヴィクトール・ランベール伯爵子息は機嫌が良かった。
いつも機嫌が良かった。自分が正しいと信じている人間は、たいていそうだ。
「ソーレル」
広間の中央、シャンパングラスを片手に、ヴィクトールはエリナを手招きした。呼び鈴を鳴らすような気軽さで。
「そこにいるなら来い。突っ立っていると邪魔だ」
「はい」
エリナ・ソーレル子爵令嬢は、壁際から歩いてきた。淡いグリーンのドレス。上等な生地だが、派手さはない。
「今日のドレスもまた地味だな。もう少し華やかにしろ。私の隣に立つ者が貧相では、私の格まで下がって見える」
「申し訳ありません」
「まあいい。それより今月の金はいつ持ってくる」
「来週にでも」
「遅い。今週中に持ってこい。社交の予定がある」
「かしこまりました」
ヴィクトールは周囲の貴族たちに向かって肩をすくめた。
「下の者というのは、気が利かなくて困る。こちらがいちいち言わないとわからない。ね、皆さん」
誰も笑わなかった。
ヴィクトールは気にしなかった。
◇
「先ほどのは、少々——」
近くにいた子爵令息が小声で言いかけた。
ヴィクトールは鼻で笑った。
「なに、慣れれば分かる。下の者には明確に指示を出してやらないと、何もできないんだ。優しさだよ、優しさ」
「優しさ……」
「そう。伯爵家の人間として、下位の者を適切に扱う責任がある。金を出させて、それで満足させてやる。良い婚約者じゃないか、私は」
「……ソーレル様はどう思っていらっしゃるんでしょう」
「どうって、感謝してるに決まってる」
ヴィクトールは断言した。
「子爵家の娘が伯爵家に入れる。こんな幸運、一生に一度もないぞ。多少の出費はむしろ喜んでするだろう。格というのはそういうものだ」
◇
フィリア・モンタギュー侯爵令嬢が現れたのは、夜会も中盤になった頃だった。
薄紫のドレス、完璧な笑顔。ヴィクトールを見つけて花が咲いたように表情を輝かせ、エリナを見て何も見えないように視線を動かした。
「ヴィクトール様。今夜も素敵ですわ」
「フィリア嬢。君こそ」
「あら、その方は——」
「婚約者だ。無視していい」
「まあ」
フィリアはエリナをちらりと見た。値踏みとも憐れみともつかない目で。
「大変でしたわね。ヴィクトール様の婚約者ともなると、色々と……出費もございますでしょう」
「ええ、まあ」
エリナは微笑んだ。
「勉強させていただいております」
「良かったですわ。わたくしたち上位の貴族の近くにいると、自然と品格が上がりますもの。月謝だと思えばよろしいのよ」
「月謝」
「そう。わたくしたちと同じ場に立てる機会を与えてもらっているのだから、多少の費用は当然でしょう。下の方々が上の方々のために金貨を出すのは、これは社会の秩序というものですわ。そうしてわたくしたちが輝くことで、社交界全体が華やかになる。皆が幸せになる話じゃないの」
「なるほど」
エリナは言った。
「社会貢献ですね」
「そうよ。わかっているじゃないの」
フィリアは満足げに微笑んだ。
◇
夜会の終盤。
エリナが帳簿を取り出したのは、広間に百名ほどの貴族が残っている時間だった。
「ヴィクトール様、少しよろしいですか」
「なんだ、こんな夜中に」
「ご報告があります。今夜この場にいらっしゃる方々に証人になっていただきたいので、今がちょうどよいと思いました」
「証人? なんの話だ」
「ランベール家のソーレル家への債務の件です。現在、金貨一万六千四百八十八枚になりました」
広間がざわついた。
「いち、まん——」
「六千四百八十八枚です。使用人の給与、食料費、暖炉代、ヴィクトール様の社交費、全てソーレル家が立替えております。十ヶ月分です」
ヴィクトールは少し黙った。
それから、ゆっくりと口角を上げた。
「ふん」
「……ふん?」
「一万六千か。中々じゃないか」
ヴィクトールはシャンパングラスを傾けた。
「私のような伯爵家の人間と懇意にしたいなら、それくらいは当然の費用だろう。むしろ安いぐらいだ。下級貴族が私と口を利きたいなら、もっと頑張って稼いでこい、という話だな」
広間が静まり返った。
「……それは」エリナは言った。「返済するつもりがない、ということですか」
「返済?」
ヴィクトールは心底不思議そうな顔をした。
「なぜ私が、下の家に金を返す必要がある。立場をわきまえろ。私は伯爵だ。貴様は子爵の娘だ。上位の者に金を出すのは、下位の者の役割だろう。学校で習わなかったか」
「習いませんでした」
「だから商人の家は品がないと言われるんだ」
ヴィクトールは周囲を見回した。
「皆さんもそう思われるでしょう。下位の家が上位の家に金を出すのは当然の礼儀だ。それを返済などという言葉で請求するのは、無礼というものですよ」
誰も同意しなかった。
ヴィクトールは気にしなかった。
「フィリア嬢もそう思うでしょう」
「もちろんですわ」
フィリアは即座に答えた。
「わたくしたちが輝くために下の方々が金貨を出すのは、社会の秩序ですもの。さっきもそう申し上げたでしょう。ねえ、ソーレル様」
「ええ、うかがいました」
エリナはうなずいた。
「ところでフィリア様。ヴィクトール様がフィリア様に贈られたネックレスと観劇の席と食事代と馬車代、全てソーレル家の立替金が原資です。合計金貨千百二枚、私のお金です」
「……は?」
「社会の秩序として、私がフィリア様に金貨千百二枚分のプレゼントをしたことになりますが、フィリア様からも何かいただけますか」
フィリアが固まった。
「そ、それは——」
「社会の秩序ですよね」
「ち、違うわよそれは——! ヴィクトール様が——!」
「私が貴様に何をした」ヴィクトールは面倒くさそうに言った。「贈り物をしたじゃないか」
「あなたのお金じゃなかったんでしょう!!」
「細かいことを言うな。出所がどうであれ、私が贈ったことに変わりはない。品格というのは、そういう細部を気にしないことだ」
フィリアの口が開いた。閉じた。また開いた。
「…………」
◇
「婚約の解消をお願いします」
エリナは広間全体に向かって言った。
「この場の皆様に証人になっていただく形で」
ヴィクトールは鼻で笑った。
「はあ?」
「ソーレル家からランベール家への、一方的な解消申し入れです」
「断る」
「理由をうかがえますか」
「理由?」
ヴィクトールは信じられないものを見る目でエリナを見た。
「下位の家が上位の家に向かって婚約を解消するとはどういう了見だ。分をわきまえろ。金を出し続けることが貴様の役割だろう。まだわからないのか」
「十ヶ月言い続けましたが、やはりわかりません」
「だから下の者は——」
「法的に、婚約期間中の継続的な人格否定は婚約解消の正当事由になります。記録は十ヶ月分、証言者は使用人含め六名、弁護士に預けてあります」
「弁護士」
ヴィクトールは少し黙った。
それから、深々とため息をついた。
「はあ。下の者というのはどうして我慢が足りないのか」
広間がざわめいた。
「我慢が——」
「そう。多少のことは我慢するのが品格というものだ。私が貴様に少し厳しくするのは、教育だ。指導だ。伯爵家の奥方として恥ずかしくないように鍛えてやっているのに、弁護士などと言い出す。だから高貴な存在になれないんだ、貴様のような者は」
「なるほど」
「わかったか」
「よくわかりました」
エリナはうなずいた。
「つまり、ヴィクトール様は、この十ヶ月のご言動が教育と指導だったとおっしゃるわけですね」
「そうだ」
「一万六千枚の立替も、下位の家の当然の義務であると」
「その通りだ」
「フォンテーヌ公爵家への令嬢に手を出そうとして、その婚約者から訴えられた後の慰謝料未払いも、一時的な資金繰りの問題であると」
「……まあ、そうだ」
「ランベール家の主要事業が全て倒産していることも」
「それも一時的——」
「五年連続で一時的が続いていますが」
「……細かいな」
「農地を除くと資産がマイナスであることも」
「貴様は本当に細かい。商売女の家というのは数字にうるさくて——」
「ありがとうございます」
エリナは微笑んだ。
「では最後に一点だけ確認させてください。今夜ヴィクトール様がおっしゃったことを整理すると、下位の家が上位の家に金を出すのは社会の秩序であり、一万六千枚の立替は返済不要であり、婚約中の言動は教育であり、我慢できない側に品格がない、という認識でよろしいですか」
「……そうだ」
「今夜この場にいらっしゃる皆様の前でおっしゃいましたね」
「……ああ」
「ありがとうございます」
エリナは広間を見渡した。百名ほどの貴族たちが、息をのんで見ていた。
「皆様、ご証言をよろしくお願いいたします」
◇
扉が開いた。
二人の男が入ってきた。
一人は、幅広い肩に厳しい目をした、五十代の大柄な男。モンタギュー侯爵だった。
もう一人は、白髪交じりの細面に、怒りを押し殺したような表情の男。ランベール伯爵——ヴィクトールの父だった。
「ヴィクトール」
父親の声は低かった。
「お父様? なぜこちらに——」
「ソーレル嬢から書簡が届いた」
ランベール伯爵は言った。
「ランベール家の現状の詳細と、お前のこの十ヶ月の言動の記録が、全て書かれていた」
「書簡、ですか」
ヴィクトールはエリナを見た。
「いつ」
「三日前です」
「……なぜ」
「ご両親への情報共有が誠実と判断しました」
モンタギュー侯爵が一歩前に出た。視線がフィリアに向いた。
「フィリア」
「お父様、これは——」
「黙れ」
一言だった。静かで、重い一言だった。
「侯爵閣下」
ヴィクトールが割り込んだ。胸を張って。
「このたびはご不便をおかけして申し訳ありません。ですが、下級の者への適切なご指導は上位貴族の責務と考えておりまして——」
「何?」
モンタギュー侯爵の目が細くなった。
「下級の者への適切な指導、とはどういう意味だ」
「つまりですね、ソーレル家のような下位の家は、上位の家との接し方を学ぶ必要があります。多少厳しくするのは愛の鞭というもので、私は婚約者として責任を持って——」
「お前が私の娘に」
侯爵の声が一段低くなった。
「ソーレル家の金を使って贈り物をし、それを『上位貴族として下位の者を輝かせてやった』と言ったそうだな」
「そ、それは——表現としては——」
「黙れ」
今度はランベール伯爵が言った。
「ヴィクトール。お前は今夜、この場で何と言った」
「……それは、場の雰囲気というものがあって——」
「一万六千枚の借金を返済不要と言ったそうだな。社会の秩序だと言ったそうだな。婚約者への言動は教育だと言ったそうだな」
ヴィクトールは口を開いた。
「下の者が我慢できないのは品格の——」
「うるさい」
父親の一言で、ヴィクトールは黙った。
「お前は今夜、百名の前で言ったんだぞ」
ランベール伯爵は目を閉じた。額に手を当てた。
「取り返しがつかん」
「お父様、しかし——」
「黙れと言った」
◇
モンタギュー侯爵がエリナの前に来た。
「ソーレル令嬢」
「はい」
「書簡を送ってくれたことに礼を言う」
「いいえ。関係者への情報共有は当然のことです」
「……一つ聞いていいか」
「どうぞ」
侯爵は少し間を置いた。
「最初から、こうなることがわかっていたのか」
「何がでしょうか」
「全部だ。今夜のこの結末まで」
エリナは少し考えた。
「わかっていたというより、準備していました。ヴィクトール様とフィリア様は、背中を押せば必ずご自身でおっしゃると思っておりましたので」
「背中を押した?」
「今夜の夜会に、先に閣下方にご出席いただけるよう、段取りをお願いしていました。ランベール様の弁護士の先生に」
侯爵が止まった。
「……では今夜ここに来たのは」
「閣下方がご自身の耳でお聞きになれるように、という配慮です。書簡だけでは、誇張と思われる可能性もありましたので」
長い沈黙があった。
「……一つだけ申し上げてもよろしいですか、閣下」
「何だ」
「フィリア様は根は悪い方ではないと思います。ただ、誰も正しいことを教えなかった。そこは、お父様としてご判断いただければと」
侯爵は、しばらくエリナを見た。
「……手厳しいな」
「事実を申し上げました」
「娘についての事実を、こんな場で父親に言えるとは」
「言える人間があまりいなかったようでしたので」
侯爵はため息をついた。
「……娘は鍛えがいがありそうだ」
「十分鍛えていただければ、社交界に戻っていらっしゃれると思います」
「その間に縁談の話を全部やり直しだな」
「おそらくは」
侯爵はもう一度エリナを見た。
「ソーレル家に、何か損害はあったか」
「農地を一区画、相場より低い価格で取得しました」
「それは損害か」
「いいえ」
エリナは微笑んだ。
「鉱脈が出ましたので、むしろ大変よい買い物でした」
侯爵が初めて、少し笑った。
「……したたかだな」
「商人の家ですので」
◇
ランベール伯爵家の屋敷は、半年後に売却された。
債務の返済に充てられた。それでも足りない分は、西部農地の権利書の売却益で補われた。ソーレル家が相殺した金額を除いても、残った債権者への返済でほぼ消えた。
ヴィクトールは王都を去った。
行き先は、ランベール家の遠縁にあたる、北部の農家だった。人口百人に満たない村。冬は六ヶ月続く。農家は豚を五十頭飼っており、世話をする人手が足りないと言っていた。
出発の日、ヴィクトールは最後までこう言っていたという。
「豚の世話など、私のような者がすることではない」
豚には、関係のない話だった。
フィリアは王都の夜会への出席を一年禁じられ、礼儀作法と経済の家庭教師を三人つけられた。モンタギュー侯爵は無言で全て手配したという。
フィリアが最後に残した言葉は、「なんでわたくしが」だったと聞いた。
エリナは西部農地の採掘報告書を読みながら、算盤を一つ弾いた。
鉱脈は、予想より広かった。
予想より良い結果というのは、悪くない。
算盤の音が、静かな執務室でご機嫌に響いた。




