ワラキアでの死の話と、紅との出会い
ヴィクターはいつも姿勢が良かった。
六百年前、生まれた国ワラキア公国で父母がくれたのが、「ヴィクトル」という名前だった。
ワラキア公国で商人だった父は、奴隷身分のロマの母と恋をして、遅い結婚をした。奴隷との結婚は公にできず、町外れの家で母はひっそりと暮らしていた。外に出なくて済むように、メイド数人が雇われていたがメイド達は元奴隷の母に冷たく接していた。
父と母は言葉が通じなかった。物心つくとヴィクトルは、父とはルーマニア語、母とはロマの言葉で話し、二人の通訳として優秀だった。ヴィクトルのおかげで、母の生活は改善した。母は次の子を身籠った。
夏の終わり、不穏な南風が街を吹き抜けた。オスマンの動きや国内情勢の悪化で、暴徒が商店を襲う噂があった。防犯の為にその晩は父は店に泊まり込む予定だった。夕方の空は、湿気を帯びた生暖かい風が吹き、ドッシリとした雲が重く垂れ下がって、夕陽に照らされて怖いほど赤く染まっていた。
夜になって、母が産気づいた。まだと思われていたのに、二人目のせいか出産の進みは早かった。街から産婆を連れて来なければならない。一人のメイドとヴィクトルは父の店に知らせに向かった。途中大粒の雨が降り出した。路地を抜けて走っているうちに、ヴィクトルは姿が見えなくなってしまった。
連れ去られて運び込まれたのは、山の中腹にある城だった。国王の城ではなく、領主の城だったが小振りでも堅牢な城だった。岩山を背に聳え立つ、堅固な城は人を寄せ付けない、いかにも何かありそうな雰囲気を持っていた。
城に着くと、包まれていた毛布から出され、手足の拘束と、口に咬まされた布を外された。深夜、静まり返った誰もいない玄関ホールで、十歳のヴィクトルは自分を攫った者達と、黙って立っていた。
奥から現れた長髪、口髭の男は満足したように、自分の髭を触りながら言った。
「そうだ、この子供だ。みろ、物怖じもせずしゃんと立って、周りを見渡している。良い目だ」
どこで見られたのか、誰でもいいのではなく、ヴィクトルを狙って攫った様だった。口髭の領主は手を伸ばしてヴィクトルの顎を撫でた。それだけで何の為に連れて来られたのかわかるくらいの勘は働いた。思わず睨んだヴィクトルの顔を見た口髭の領主が発した大きな笑い声が、真夜中の玄関ホールにこだました。
城の中にはヴィクトルより年嵩の何人かの少年たちがいた。全員、どこかから攫われて来たようだ。聞けば、それぞれ城の外に出ること以外は自由で、日々、周辺諸国の歴史、言葉などを学ばせられていた。平和な年は年に二回、諸国の貴族や裕福な商人達を招いた晩餐会が開かれ、少年たちはお披露目された。そして、成長具合によって十八歳以降、遅くても二十歳には城から姿を消していた。
口髭の領主は見た目三十代後半くらいだろうか。背は高く、長髪、そして青白い顔に双眸を不気味に光らせていた。
十五歳を過ぎると、少年たちは領主の夜の相手を強いられ、少しずついろんな事を教え込まれていく。この時に領主に飲まれる一口程度の血が、全ての秘密を領主に告げてしまうので、隠し事ができないのだった。逃げることも叶わず、成長しきる十八歳程度には、体をヴァンパイアに作り変えられる。今度はヴァンパイアである領主の血を飲まされる。変化の儀式だ。
始祖にごく近い領主の血が体に入ると、一つ一つの細胞が超常的な再生能力を得る。どんな怪我もあっという間に治る。たとえ体に穴が空いても、元ある細胞の記憶で全く同じに再生する。再生しないと言われる脳や心臓ですらも。
病気に関しても、どんな病原体もなかったことになる。食べ物の栄養は要らない。必要なのは少しの水や血液だけ。血に含まれる相手の想いや記憶も取り込める。通常貰う血液は、ほんの一口。一度に沢山飲んで殺す様なことはしない。死体の始末に困る。血を飲まれる時、相手には強烈な快感があるので抗う者はいない。
この濃い血の系譜のせいで、ヴァンパイアの物語で言われるような陽の光で焼け死ぬとか、鏡に映らない、影がないということもない。にんにくや十字架が怖いとか笑わせる。実際は体の中で、血液はゆっくりと巡っている。そのせいで百年に一歳程度成長する。いや、老化か。
この変化の儀式の時、口髭の領主はこの時とばかりに悍ましい性癖を解放する。生贄の体はまだ作り変わっている途中で痛みは感じるのに死ぬことは出来ない。涙は流れ、叫び声は枯れる。三日間、散々嬲られた果てに生贄は濃い血の系譜のヴァンパイアに変貌する。
血を飲んだだけでは、弱い、陽の光が怖いヴァンパイアになってしまうというが、わからない。その後、新しいヴァンパイアは生まれていないから。ヴィクトルの前に仕上がったヴァンパイア達は色んなところへ売られて行った。ヴィクトルのように今も存在するのか、しないのか。
ヴァンパイアは食事が取れないと弱って干からびてしまう。これは存在がなくなるという事ではない。干からびたミイラに誰かが血を注げば復活する。世界中の博物館にあるミイラの中にはヴァンパイアの成れの果てがあるかも知れない。
ヴァンパイアを殺すには一つだけ方法がある。儀式を終えたヴァンパイアは貰った血の記憶で自然と知っている。
ヴィクトルの儀式中、領主の城は領民達の襲撃にあった。領主の秘密を突き止めた者がいたのだ。
ドアを破って入ってきた者達が見た物は、まるで地獄絵図だった。領主を捕らえてベッドから引きずり降ろすと、下には血の海に沈むヴィクトルだった物を見ることになった。ヴィクトルの体は人の形を留めていなかった。肉の欠片のどれが何かわからないまま、全部を血塗れのシーツで包まれた。
その時、シーツの中からヴィクトルは必死に訴えた。
「……眉間と心臓を、……同時に突いて……そうしないと、死なない……」
領主を押さえつけて、その通りにすると、口髭の領主の何百年も生きた体は砂の様に崩れた。
それがヴァンパイアの変化の儀式と知らない領民達は、バラバラのヴィクトルをまさか生きているとは思わずにそのまま埋葬した。
「どこから連れてこられたのか、可哀相に」
息絶えたはずのヴィクトルの亡骸を埋めながら、一人の男は呟いた。
数日後。
眩しい朝日の降り注ぐ、領主の館の庭で、土から這い出したヴィクトルのその後の長い長い旅が始まった。
ヴィクターはいつも姿勢が良かった。
現代フランスで会った英語話者には「ヴィクター」と名乗った。
遠くから見て青く見えたセーヌ川は、近くまで来ると茶色かかった緑色をしていた。臭いはない。それでも、二百年前と百年前に見た時よりは綺麗になった気がする。当時は臭かった。
清流とは言えないこの川をパリの人たちは愛していた。川べりで散歩やランチを楽しむ沢山の人たちは、それぞれのグループで話し込んでいる。皆、チーズとワインは必須のようだ。あとは果物。
「なんか嫌なんだよねぇ……」
英語で話す若者のグループがいた。二十歳前後の五人ほどの男女のグループで、小振りなトランクか大きなデイバックを持っていた。トランクに預け荷物のタグがないところを見ると、今日、ロンドンからユーロスターでパリ北駅にやって来たのかも知れない。英語ネイティブの数名はキングスイングリッシュだったから。これから、荷物をホステルに預けて、観光へ行くのかな?東洋人の女の子がアメリカ発祥のコーヒーチェーンのコーヒーの紙容器を持って、複雑な様子で言った。その使い捨て紙容器に書かれた名前は『BENI』
「なんか、名前書く時とか、カップ渡す時に微妙に優しく微笑まれる」
「え? いいじゃん。睨まれるんじゃ無いんでしょ?」
「ケンブリッジじゃそんなことないでしょ、変な含みを感じるんだよね」
「失礼。耳に入ってしまって」
ヴィクターは英語で声をかけた。
若者のグループは話の中にヴィクターを入れた。
「僕は翻訳や言語学の仕事をしているんだけど、思い当たる解説をさせてくれる? 実は英語と違って、フランス語のようにラテン語系言語では、君のその『BENI』がとても意味のある言葉なんだ」
「え? どんな意味?」
「祝福だよ。神の祝福」
パリで日本人の「瀬下 紅」と出会ったヴィクターは、この後日本に渡ることにした。次の行き先に迷っていた矢先、まだ、東洋に行った事はなかったなと思った。
世界に類を見ない不思議な言語、日本語を知りたいと思った。
紅は日本人の女の子で、日本の国際関係学に強い大学から、イギリスの歴史ある大学に留学して政治と社会を学んでいるところで、その後修士課程をパリのラテン区の大学で学んで国際機関で働きたいという。日本の大学で少しだけフランス語を習ったけど、行きたい学部はもっとフランス語が使えないと合格しないので、出願までの一年の間に、フランス語で講義が受けられて論文が書ける程度になりたいらしい。
ヴィクターがフランス語を教えることになった。代わりに日本語を習う。
お互いの希望を擦り合わせて、半年後に日本で合流することにした。それまではWhatsAppで授業する。
「ヴィクター、何カ国語も話せるなんてすごいね」
と言う紅に、
「君の行きたいラテン区の大学が、ラテン語で授業をしていた頃も知ってるよ」
「それ、いつよ? ふふふ、神様、ヴィクターとめぐりあわせてくれて、ありがとうございます」
「……紅、君の言う神様って?」
「神道の神よ。日本の神様」
名前のある神様も名前のない神様もあちこちに沢山いて、話しかける時にはただ、神様って言えばいいという説明が感覚ではわからないけど、行ってみたい気持ちはさらに湧き上がってきた。
紅と別れて、ヴィクターはポンヌフの橋の上でセーヌの水面を覗き込みながら、
「人を助けてくれる神様はいない。けど、たまに、祝福は贈ってくれるみたいだよ」
流れるセーヌにそう呟いた。
「嵐にあっても背を伸ばして立ち向かい続ければ」
足元にいた鳩達が一斉に青空に羽ばたいた。
背を伸ばしたヴィクターが空を見上げた。




