彷徨う旅とバルト海の別れ
ヴィクターはいつも姿勢が良かった。
五百五十年ほど前、イタリアでは「ヴィットーリオ」と名乗った。
不老不死の身になってからは、気持ちの赴くままに放浪してきた。イタリアでは評判の芸術家の工房に出入りした。
最初は下働き、そしてモデルとして。工房の近くに宿舎もあった。評判の芸術家が夜になると、ヴィットーリオの元に訪れるので、弟子たちの間で噂になった。が、芸術家はまるで気にしなかった。猫を抱いたヴィットーリオを描きたかったらしいが、ヴァンパイアのヴィットーリオは動物に避けられるので抱くことはできなかった。何度か試した後、別々に描くことになったが、今度はそこから筆が進まなかった。
この芸術家は集中すれば傑作を描き上げるが、興味の対象が移りやすい。芸術家はなぜか絵ではなく、風の動きを研究し始めた。
夜の訪問がなくなり、食事に困ったヴィットーリオにもう一人の芸術家から声がかかった。
彼も同性愛者で飢えの心配も無くなった。彫刻のモデルとして、彫塑の段階まで来て、最初の芸術家が迎えに来た。
あんなに放置しておきながら、と思ったが素直に帰ると結局はそのままになった。連れ戻しただけで満足したらしい。そこから、三回ほど行ったり来たり。もう一人の芸術家の方の彫刻は、別なモデルも使って完成したが、最初の芸術家の方はそのままになった。
芸術家達は対象を捕らえて自分なりの解釈で再現しようとする。言語を尽くして物事を伝えることと、どこか似た難しさと達成感があるのだと思えた。
ヴィクターはいつも姿勢が良かった。
五百年ほど前、ドイツでは「ヴィクター」と名乗った。cではない、kのViktorだ。
イタリアからアルプスを超えて、ドイツ国内を北へと旅をした。ラテン語圏から離れた言葉の面白さ。国民性と言語の真面目さがリンクしているのが興味深い。
旅の途中、ハンザ同盟の大きな商会主と懇意になり、商隊の移動に紛れて野盗の類から守ってもらった。商会主は他の商会主との縁を繋げてくれ、ヴィクターは思う存分言葉の海に浸って、なんの心配も無く旅を続けられた。ついにハンザ同盟の中心都市リューベックに着いた。
ヴィクターは、もっと北の言語にも興味があった。商隊と共に貿易船に乗り、バルト海の島々を渡る旅に出た。
商隊の中に一人、若い男がいた。ひどく疲れた様子で、病気ではないようだが足取りが覚束ない。船長は顔見知りらしく気にかけて、ヴィクターにちょっと相手をして元気づけてくれと言って来た。方法なんて一つしか思い浮かばないんだが。
リューベックを出た船は風と海流の調子が良く、数日でスウェーデン領海に入った。そこから、バルト海の島々を巡る。
船長の気にかけている彼は、実はスウェーデンの若い騎士だった。
騎士は全く話さなかったが、血液の中に残る思いや記憶で、何も言われなくともヴィクターには彼の背景が読み取れた。
出自は名門で父は最高国家顧問。彼は二年前、停戦の人質として隣国に差し出され、北部の城に軟禁されていた。祖国に対する不穏な噂を聞き、脱出して支援者のいるリューベックまで辿り着いた。しかし、船で彼は残酷な事実を知らされた。
王宮で行われた二国間の和平を祝う宴に彼の家族は揃って参加し、翌日、豹変した隣国の王の命令で国王と国王派の全員、彼の父や兄弟達が処刑されたという話を。間に合わなかったのだ。
絶望と怒りで震える彼を、ヴィクターはただ抱きしめた。
「船には女はいないんだ。もし、君の教義に背くというなら拒んでくれ」
と問うヴィクターに、彼は力なく応えた。
「神はいない。神は何処にもいないんだ……」
それはヴィクターも知ってる。何度も絶望したから。
二人はお互いに全身どこに触れても痛むかの様に、そっと優しく触れ合った。
「ヴィクター、全部の血を飲んで、私を家族の元に送ってくれないか?」
「……そんな事はできない。それをやってしまったら、次は僕が船の連中に捕まってしまう」
「そうか……そうだな」
「それに、君、君にしか出来ない事が、やらなければならない事があるかも知れないよ」
「あるかな? そんなことが」
彼はしばらく「あるかな……」と呟いていた。
数カ所の港を巡り、王宮のある島の一つ手前、バルト海の航海の要所である島で彼は降船した。
母親と妹達は処刑されず、隣国に連れて行かれたと聞いて、蹂躙された祖国と彼女達の奪還に燃えていた。
「君は私の胸にもう一度火を灯してくれたよ、ありがとう」
「無事を祈ってる」
「戦い続けるよ、勝つまで。やり遂げるまで。ヴィクター、君も……」
続く言葉を全て口にせずに、彼は、焼き付きそうな口づけを残して船を降りて行った。
彼が暗い夜の港を去って行くのを見送りながら、ヴィクターは、自分の涙はあの日、故郷の城で最初に死んだ時に尽きた事を悟った。
ただ、バルト海の冷たい風に吹かれて、甲板で白い息を吐きながら見送った。
最後に振り向いた彼の視線の先、大きな船の甲板に背を伸ばして立つヴィクターの後ろ、暗い星空に燃え立つ炎のように、緑に揺らめくオーロラが輝いているのが見えた。
数年後、この彼が国を取り戻したのを知った。残念ながら、母親と妹達は亡くなってしまったらしいが。
「君は勝つまで戦ったんだな……」
自分だけが知っている、彼の最後の笑顔を心に留めることが出来るのが、神のささやかな祝福なのだ。
ヴィクターはいつも姿勢が良かった。
四百七十年程前、ベルギー(ネーデルラント)では「フィクトル」と名乗った。
船でアントワープへ来たフィクトルの目的は、最新鋭の印刷機でフランス語の新約聖書の印刷をすることだった。依頼者の支援者から潤沢な資金は出ていたので、街の一角ごと買い取って、囲まれた中庭に印刷機を設置し、職人達は囲んだ家に住まわせた。教会に見つかって、異端審問を受けるのを避けるために。そこで先行のドイツ語聖書も底本にギリシャ語、ラテン語の原書の聖書も使って、自ら翻訳した原稿の校閲に明け暮れる幸せな時を過ごした。
個人的には聖書自体に思い入れは無い。神の存在の有無は計り知れないが、ラテン語やギリシャ語で書かれていて、自国の言葉ではなく読めないなど、人々の心の拠り所となる物が自分で読めなければ、枕にしかならないからだ。どんなにありがたい言葉が書かれていても。
フランス語の新約聖書の印刷は完成した。無事に何度かに分けてフランスに送り出した。
大航海の時代。交易や戦争と共に全世界に飛び出して行った諸言語は各地で混ざり変化していった。失われた沢山の言語もある。この新しい変化の速度たるや、感心すると共にこれからの更なる変化に期待せずにはいられない。
ヴィクターはいつも姿勢が良かった。
四百数十年前、イギリスでは「ヴィクター」と名乗った。
劇作家と親密にな理、作品の舞台となるイタリアの街の話を劇作家にした。少し話すと彼の中で物語が広がる様子が興味深かった。
わずかな材料から物語を膨らませる彼の思考は彼の想像の世界の広さを感じさせた。イタリア、フランス……知っている場所の話はできたが、ヴィクターは中東のことは知らなかった。いつか一緒に砂漠の国に行こうと話した。
舞台役者としてもいくつかの作品に参加し、劇作家と何人かの役者とはヴィクターの秘密を共有したというのに、嫉妬が原因で争いになって追われる様に出国した。
フランスでは「ヴィクトール」、オーストリアでは「ヴィクター」……。
狂乱のパリ、壮麗なウイーンのオペラにも参加した。あらゆる芸術の最前線を体験した。
広かった世界は今や家を出ずとも、世界のどこの情報も手に入るようになってきた。
ほんの少し前には、商品は手作りだったし、同じ物はよその土地では手に入らず、手に入れるためには手間もお金もなんなら命さえかけなければならなかった。それが、今は地球の裏側で作られたワインが近くのスーパーで手に入り、世界中の人が同じ物をネット注文で手に入れることができる。直接行くのが難しい場所であっても世界の誰とも回線を繋げれば、話すことができる。宇宙ステーションの中のクルーとも機会があれば話せる。地球が縮んでしまったような気さえする。
ただ、言語はまだまだ統一される様子はない。
百年と少し前、人工言語を作る手伝いをしたこともあった。
国を持たないその言葉は縛られることもなく、ある程度世界で広まっていった。今でも使われる場面はあるが、母語で使われることはない。第二言語だ。
ヒトの心にはやはり国の概念が大きい。国を守るために命をかけ、皆、その国の言葉を愛している。
近年、世界はどんどん便利になった。その分、窮屈になってヴィクターのような不明確な存在が許される隙間がなくなっていくようだ。おかしな形のパズルのピースは嵌る場所がないのだ。
国境を越えるのが難しくなって来たが、支援者や権力者の知り合いも増え、今のところはなんとかやり過ごしている。
最近では、ヴィクターは隠す手間が鬱陶しく感じて、自分の存在が露呈しても構わないかとさえ思う。普段使っている数種類のSNSでは、「匂わせ」すらしてる。人工血液が出来て、食事の為の行為が必要なくなった事が大きい。新鮮な血液が必要のないヴァンパイアとか、ただの「長生きなヒト」なんじゃないか?AMAA(Ask Me Almost Anything)で吸血鬼なんだけど、質問ある? とかやってみたい。多様性でなんとか……ならないかな。
世界中の言葉が統一された頃には、受け入れられるのかもしれない。
それはつまらない世界なのか?いやきっと統一されても言葉は各地で、世代で、それぞれ変化するだろう。
そんな変化の流れを見守るのもまた面白そうだ。




