鴉羽色の翼
「――――」
ディーが……自分と同じ大天使だった……。
自力ではたどり着けなかった事実に、キラはポカンと口を開けたまま固まっている。
そんなキラにディーは小さくクスッと笑った。
「幻滅したか?」
「え……っ? そんなことないよ」
自虐的な口調の問いに驚いたキラは首を横に振って……、改めてディーの姿を見つめた。
支配者然とした圧倒的な存在感。鴉羽色の美しい長髪。スッと細められた深紅の瞳が優しくこちらを見つめている。
その背にある翼は闇夜の中でさえ映えるような美しい鴉羽色だ。漆黒の中に艶やかな光沢を持ち、否応なく目を奪われて惹き付けられてしまう……。
「……綺麗な翼……」
ポツリと呟くキラにディーは怪しくフフッと笑った。
「お前の方が綺麗で可愛いよ」
「っ! もう……っ」
からかいにキラがいつもの調子を取り戻すと、ディーは再びクスッと笑った。
そんなディーにキラは少しムスッとしてしまうが、ついディーの翼を触ってしまう。
「黒い……」
天界に住む天使と大天使は大多数が純白の翼だ。その純白の天使達が住む楽園の片隅に追いやられているのが、自分のような灰色の天使。天使と大天使は純白の翼なのが当然であり、灰色の翼は異端の存在だ。
灰色の翼は日陰者の証。迫害されて当然で、仲間外れは日常茶飯事。純白の天使達からすれば目にするのもおぞましい醜いだけの存在だ。
とにかく、灰色の天使や大天使はキラにも理解できる。だが、ディーのそれは明らかに違う。純白の対極にある色だ。
「どういうこと……?」
滑らかな羽根を触りながらディーの顔を見ると、ディーはキラと視線を合わせたままゆっくりと首を傾げてみせた。
「――……俺は長く生きている存在だと言っただろう? 俺が天界にいた頃は、天使の翼は白と黒の二つがあった」
「……そっか。ディーも天界にいたんだね」
「お前からしたら遥か昔の出来事だ。ガキの頃にしかいなかったし、思い入れなど微塵もない」
ディーの深紅の瞳が物憂げに細められた。
「当時も天使は白いのが当たり前という風潮があってな、俺らみたいな黒いのは差別され虐げられていたんだ」
「……」
ふぅとディーは大きなため息をついた。
「俺の一族は黒の連中を束ねる立場でな。白の圧政に耐えかねた俺の親父と兄貴達が、黒の連中を纏め上げて蜂起した。黒と白の戦争だ」
「戦争……」
ポツリと呟きながら、キラは天界に伝わっていた昔話を思い出す。
今から遥か昔、天界を揺るがす大きな戦争があった。純白の天使達は正義の名の下に団結し、天界に不和をもたらした諸悪の根元である悪の天使達を打ち破った。かくして悪は消え去り、そうして天界に平和をもたらした……。
「何が正義だ。何が悪だ。ただ色が違うだけだろう。黒はただ正当に生きる権利を求めた、それだけだ」
ディーの言葉にキラは思考の中から我に返る。
隣に視線を向けると、苦々しく笑っているディーの横顔が見えた。
「戦争の果てに黒は敗北した。戦争で生き残った黒はことごとく処刑され、俺の一族は首謀者として見せしめに惨たらしく殺されていった。そうして天界から黒の天使は一人残らず消え去った」
「……っ」
血生臭い歴史の話。そしてその当時を生きたディー……。あまりにも淡々と語るディーにキラの顔が歪む。
痛ましい気持ちが耐えきれずにディーの腕に触れると、ディーはその手に自分の手を重ねて置いた。その手は微かに震えているように感じる。
「……俺は唯一の生き残りだ。まだヨチヨチ歩きのガキだったから温情で見逃された、というわけじゃない。俺も酷い目に遭ったさ。全身の骨を折られたし、目は潰されたし、翼ももがれたし、炙り焼きにもされた。無事な部分なんてほぼなかった」
「――ッ!」
キラの悲鳴は喉に引っ掛かって声に出ることはなかった。
そんなキラからディーは気まずそうに目を逸らす。
「……天界に生きる白の中にはな、自他共に認識できない程度の割合で黒の血を引く者がいた。俺が生かされたのは、そうした連中への見せしめのためだ。連中から再び黒の天使が現れた時に、白に逆らうような真似を起こさせないように、な」
「…………ぇ」
キラの心が暗くざわめく。
灰色の天使は純白の天使からごく僅かな確率で生まれてくる。その理由や原因なんてこれまで考えたこともなかったが……、黒の天使の血が影響しているのだとしたら……?
ディーは目を伏せて、フッと息を吐いた。
「わかっただろう? 俺の存在は灰色のお前が受けた迫害の元凶みたいなものだ。恨んでくれていい。嫌うのは当然だ」
「……っ、恨むわけないよ!」
あまりの言葉にキラは反射的にディーの腕を掴む。
「ディーは悪くないっ。全然悪くない! 嫌いになんてならないよッ!」
自分の体を必死に揺さぶるキラに、ディーはそっと視線を向ける。恐れ怯えるかのように不安定に揺れている深紅の瞳。
キラはディーの腕を擦りながら尚も訴える。
「大丈夫だよ! 関係ない! 何も気にすることなんてないっ。上手く言えないけれど……、大丈夫っ! 大丈夫だからっ……!」
「……キラ……」
キラにゆさゆさと揺さぶられているうちに、ディーの心は少し落ち着いてきたようだ。
ふぅー……と重いため息を吐き、キラにそっと笑いかける。
「ありがとうな。キラがそう言ってくれると、心の重石が軽くなる」
「重石なんていらないよ。ぽいってして、ぽいって」
「っ、あはははっ!」
ディーがようやく声を出して笑ってくれた。
うん……、ディーはこうでなければダメだ。キラもつられてふふっと笑ってしまう。
そんなキラに優しく目を細めたディーは、キラの肩に頭をコツンと乗せた。気持ち良さそうに目を伏せて……、甘えているようだ。
そんなディーが幼く見えて、キラはそっとディーの頭を撫でる。
「ふふっ……。キラがこうして自分から触ってくれるのは嬉しいな」
「特別だよ」
「うん、特別だ。特別だから、他の男には触らないでくれ。俺だけにしてくれ」
「もう……っ。調子に乗るならやめにするよ」
「残念」
ディーは悪戯っぽく笑って体を起こすと、さりげなくこめかみに丁寧な口付けをした。
心なしかディーの唇がいつもより熱く感じる――、と思った直後にディーが耳元で囁く。
「大好きだよ、キラ」
「ちょっ、その色っぽい吐息やめっ……!」
キラが抗議する間もなくディーは体をサッと離して、渇いた喉を潤すようにウイスキーをゴクッと飲み込んだ。
……こんな状況なのにウイスキーを飲み込むディーの喉仏に色気を感じてしまい、キラは慌てて誤魔化すように咳払いをする。
「ま。そういうわけで、俺は元大天使だ」
「元、なんだ?」
ディーは鴉羽色の翼を揺らしながら「まぁな」と肩を竦めた。
「俺は白の連中から散々いたぶられた挙げ句、境界の扉からポイ捨てされた。俺は死んだも同然の状態だったんだが、気まぐれを起こした序列第一位の魔王に拾われてな。奴が張り切って蘇生を施した結果、俺は魔族に近い存在へと変質した。そこから俺は長い年月をかけて魔界の底辺から今の地位まで這い上がってきた。その過程でも色々な影響を受けて、それでますます魔族化したわけだ。本来の髪と翼は純粋な黒色だったんだが、魔族化の影響で鴉羽色になった」
ディーは「だから、な?」と自嘲した。
「俺は元大天使であり、同一の存在がいない魔族モドキというわけだ。そんな歪な存在は魔族から見ても異質に感じると思うだろう? 俺も自分のチカラや翼を見せびらかす趣味はないし、お互い不快にならないようにと関わってきた」
「……異質なんかじゃ、ないよ」
ディーは自分を卑下する言い方をするが、キラは首をフルフルと横に振った。
少なくともキラがこの城で出会った魔族達は、ディーのことを心から慕っているように感じた。強者に仕方なく屈して従っているのではなく、ディーという存在に惹かれて好ましく感じているのだと。
だから……、そんな言い方はしないで欲しい……。
自分を必死に見つめるキラに、ディーはふふっと小さく笑った。そして伏せ目がちに小さくため息をつく。
「キラにそう言われると嬉しいな。……後はキラが俺の醜い体を気味悪がらなければいいんだが……」
「? どういうこと?」
ディーは醜いどころか支配者然とした圧を纏う美形だ。どこまでも美しい鴉羽色の髪と深紅の瞳。整った顔立ち。スラッとした背丈で男性らしく整った体型をしている。そんなディーに見惚れるならともかく、気味悪がる要因がキラにはわからない。
不思議そうに自分を観察するキラに、ディーはフッと自嘲しながら再び目を伏せた。
「俺は魔王の手で蘇生した。粉砕していた骨も目も臓器もあるべき形に戻ったし、もがれた翼も再生したさ。だがすべてが完全復活とはいかず、体全体に傷痕が残っているんだ」
「……」
ディーは普段から長袖を着ているし、前ボタンの襟元も息苦しくない程度にしか開けていない。だからキラは彼の体どころか二の腕すら見たことがなかった。
……夜鴉公だからだらしのない服装をしていないのではなく、肉体の傷痕を晒したくないのだろうか?
「そんなに酷いの……?」
「当時と比べればマシだがな、キラの目にどう映るか」
「……見てもいい?」
キラの言葉が予想外だったのだろう。ディーは絶句して――……、やがて観念したようにふーっと深く息を吐いた。そして袖口を緩めると、ゆっくりと両袖を腕捲りしていく。
そうして露になったのは逞しい男性の腕と、そこに残された古い傷痕の数々……。目を凝らさないとわからないレベルではあるものの、手首には残虐な形状をした枷の痕跡らしき皮膚の変色が残っていた。
これらを負った当時の幼いディーを想像して、キラは暗く身震いする。
「……もう痛くないの……?」
キラの心配した声音にディーが少し安堵したような息を吐いた。これらを見たキラがどのような反応をするのかと緊張していたようだ。
「今は何ともない。最初の数年間は痛みやひきつれの後遺症に悩んだがな」
「……体の痕はもっと酷いの……?」
「ああ」
「…………見てもいい?」
「キラが構わないのなら」
問いに対してキラが小さくコクンと頷くと、ディーは再び緊張を逃すように息を吐いてからシャツのボタンを外していく。
そうして現れたのは、引き締まった筋肉が見事な男性の上半身。……だが、そこにあるのは悪意を持って振るわれた暴力の痕跡だ。
素直な刃物の痕はまだ優しい。わざと切れ味を悪くしたノコギリ刃の痕、火傷の痕。背中には鋲付き鞭の痕――。
長年の経過で痕跡が薄れているとはいえ……、これは、酷い……!
「ディー……っ!」
堪えきれない胸の痛みに涙が勝手に出てくる。キラの両目からぽろぽろと流れ落ちるそれに慌てたディーは、翼でキラの視界から自分の肉体を隠しながら急いで服を着た。
「ごめんな。やっぱりこんな醜いのは見せるべきじゃ――」
「ちが、違うの」
確かにディーの体に刻まれた悪意の痕跡はキラには刺激が強くてショックだった。だがそれ以上に幼いディーがこんな目に遭っていたと思うと、その方がよほど辛くて……。
「ディー……」
キラは震える手でそっとディーの胸板に手を添える。
ディーのことを可哀想だと憐れむなど、きっと彼にとって冒涜になる。ディーはキラが想像できない以上の生き地獄を乗り越えて生きてきたのだから。
だからこそ――……、今はディーに言うべき言葉がある。
「み、醜くなんて、ない。ディーは醜くないし、不気味でも、異質でもない。ディーは綺麗だよ……」
「っ。……キラ……」
嗚咽の合間に必死で言葉を紡ぐと、ディーは一瞬言葉を詰まらせてからキラに求愛の口付けをする。愛しい想いを込めた優しい口付け。
「ご、ごめんね。ディー、泣いてごめんね……」
「いいんだ、キラ。俺のために泣いてくれてありがとうな」
自分に向けてそっと優しく微笑むディーに、キラの胸はまた痛む。
ディーが頭をポンポンと撫でて宥めてくれたおかげで、キラは少しずつ泣き止むことができた。キラの体をそっと包み込むように広げられたディーの片翼が温かい。
ディーの体に少し寄り掛かりながら羽根を撫でていると、ディーが小さくクスッと笑った。
「ああ、今夜は良く眠れそうだ」
「ん……。それは良かった」
「なぁキラ、今夜は一緒に寝ないか? キラに添い寝して欲しいなぁ……」
ねだるような甘えた声に見上げると、ディーはあざとい表情と眼差しでこちらを見つめていた。
その様子にキラは思わずプッと笑いを吹き出す。
「ダーメっ。頭と翼はナデナデしてあげるけれど、一緒に寝るのはダメ」
「寂しいなぁ……」
「わっぷ!」
ディーが片翼を器用に使ってキラの体を抱き寄せようとしてくる。贅沢な羽根の感触がくすぐったい。
自分の翼に埋もれてワタワタともがくキラにディーはご満悦だ。キラが可愛くて仕方がないといった風に目を和ませている。
「キラ。俺の大切なキラ。俺の存在を認めてくれてありがとう。本当に嬉しいよ。お前は俺のすべてだ」
「その大切な私が翼に埋もれて溺れかけているんですけれど?!」
「ああ、キラが俺の翼に埋もれている……。最っ高だな」
「……っ!」
そ、そうだった! 天使や大天使の翼はチカラの具現化であると同時に、とても繊細で敏感な部位なのだ。自分も翼が少し枝葉に引っ掛かっただけでゾワゾワした経験がある。
つまり……。自分は今、その敏感な翼に埋もれているわけで……。それをディーが感じとっているわけで……。
「ちょっと?!」
思わず肩をバシバシと叩いて抗議すると、ディーはケラケラと笑い転げた。
「あははっ! お前だってさっき自分から触ってくれていたじゃないか」
「だ、だって! ディーが大天使だなんて最初は思わなかったんだもんっ……!」
「大天使でなくとも、翼はソイツの急所に等しい大事な部位だってのは想像がつくだろうが。ワサワサ触られてくすぐったかったぞ。ああ、嬉しいなぁ」
「変態ッ!」
「あはははっ!」
ディーはキラの体から翼を離すと、そのまま嬉しそうに翼をバサリとさせた。無邪気なものだ。
心労と呆れと羞恥心とがごちゃごちゃになって、キラは大きくため息をつきながら半笑いになった。……何だか色々と馬鹿馬鹿しくなって疲れた……。
くた~っと肩を落としたキラにディーはクスクスと笑っている。
「からかいや冗談は抜きに、本当に嬉しいんだ。他人に自分を見せびらかす趣味はないが、それでも認められるのは気分がいい。お前にならいつでも俺のすべてを見せるし、いつでも俺に触ってくれていいぞ。むしろどんどん触ってくれ。キラに触られると心が落ち着く」
「……ディーは綺麗だし素敵な人だよ。だから今はとりあえず翼をしまってくれる?」
「もう一度触ってくれたらな?」
ディーは期待するように翼を揺らしてそわそわしている。
キラはそれをチラッと見て……、軽くため息をついてからディーの翼に手を伸ばした。
……それにしても、本当に極上な手触りだ。頭を空っぽにしてしまえば遠慮なく全身で埋もれてもふっと堪能してしまうだろう。
ディーの様子を窺うと、彼はリラックスした表情で気持ち良さそうに目を閉じている。
大天使の翼は繊細で鋭敏な部位であり、命綱と言っても過言ではない大事な物だ。そんな大切な体の一部を他者に触らせる行為は最上級の信頼の証。触られている側の感覚を例えるなら、愛する両親から受ける抱擁の温もり、だろうか。
もしも触ってくる相手が嫌いな奴だとしたら……。何かの間違いでほんの僅かに触れただけでも激しく嫌悪し、鳥肌どころか吐き気に襲われて、反射的に攻撃してしまうことだろう。
「ディー?」
「このまま寝ちまいそうだ……」
「はぁ、まったく……」
呆れつつもディーの翼をポスポスと撫でて、ふと考える。
……自分は他人に翼を触らせたことなど一度もない。ディーが相手なら……、どうだろう? 少なくとも反射的に殴りかかるような真似はしないと思うが……。
「……」
目の前にあるのは立派な翼……。大天使の強さは翼の大きさと美しさに比例しているのだ。
こんなに立派な翼を持つ大天使だなんて、今の天界には存在していないかもしれない。ディーから見れば今の天界で《歌》を響かせている大天使達なんて大した存在ではないのかも……。
「ねぇ、ディーも《歌》を歌えるの?」
ディーはうとうとと微睡んでいたが、キラの言葉を受けてフッ……と目を開けた。
「うん……? まぁな」
「ディーの《歌》を聞いてみたいって言ったら、怒る?」
ディーの反応を窺いながら訊ねると、ディーはキラの心配とは反対にフワッと微笑んだ。
「俺は《歌》のチカラをフリューゲルの統治のために使っている。領域全体に結界を展開して外敵から守り、領域内の環境を安定するためにな。それ以外で《歌》のチカラを使うとしたら戦場だけだ。だから俺は一個人に聞かせるためだけに《歌》を歌ったことが一度もない。――だが、お前にならいくらでも歌うとも」
「……っ」
自分に向けられた綺麗な微笑みに、思わずドキッとしてしまった。
「でもな、今日はダメだ。俺は酒を飲んだ状態では歌わないと決めているんだよ。また今度改めて、な」
「……うん……」
「それにしても嬉しいなぁ。キラが俺の《歌》を聞きたいだなんてな」
喜びに弾むディーの声に顔を向けると、ディーは小首を傾げて悪戯っぽく妖艶に微笑んだ。
「知らないのか? 大天使が特別な異性に向けて《歌》を歌うのは、最上級の求愛行動なんだぞ?」
「?!」
そんなことは初耳だ! 驚いた拍子に唾が気道に入ってしまって激しく咳き込んでしまった。
ディーは嬉しそうに笑いながらキラの背中を優しく擦っている。
「本当に初心だなぁ。可愛い」
「ディーだって恋愛初心者のくせにぃ……っ!」
「俺はお前より長く生きてきたからな。それだけ色々と知っているってことだ」
「もう……っ!」
異性に対して《歌》を歌うことは大天使の求愛行動……。
それは、つまり……、自分がディーに《歌》を聞かせたいと思ったのは――……?
「もうっ! もうっ……!」
顔と耳を真っ赤にしてポカポカと叩いてくるキラの手を受け止めながら、ディーはふふっと優しく微笑んでいた。




