求愛の口付け
ディーの一日のスケジュールはほとんどが決まっている。午前中は配下からの報告や指示出し、執務を行う。昼休憩を挟んで午後は残りの執務をこなし、僅かに空いた時間を余暇に使う。
ディーは休憩や余暇の時間、そして就寝前の寛ぎ時間にキラの元を訪れて、キラと過ごす穏やかな時間を楽しんでいる。相変わらずこめかみへの口付けは毎回してくるが、それ以上の過度なスキンシップはしてこないし、キラが不快になる発言も抑えてくれている。
食事を一緒に摂る時もあるが、ディーは多忙だからタイミングが合わずに別々の場合が多かった。一体以前は何をどうやってエグシスに来る時間を捻出していたのやら……。
ディーはエグシスで会っていた時と変わらない気さくな態度で接してくるが、夜鴉公の存在感と立ち振舞いは美しい。ディーは「気にしなくていい」と言ってくれているが、キラはどうしても自分の所作が気になってしまう。
そんなことをレンに漏らしたら、レンは胸の前で両手をグッと握って力を入れた。
「私にお任せくださいっ。お嬢さまを立派なレディにしてみせるのですっ!」
「えっ」
そんなこんなで、最近のキラはレンから食事のマナーや様々な所作を学んでいた。
とはいえキラの暇潰しをかねてストレスなく教えてくれているので、正直キラは助かっている。
「食事のマナー? 飲み食いができれば何だっていいだろうに」
休憩時間にやって来たディーがソファに座ってお茶を啜りながら呆れたように言っている。
気怠げに座っているだけにも関わらず、その姿は美しい。外見が良いからそう見えているだけなのか……?
「ディーはちゃんとしているからいいじゃない」
「わざと汚ならしくズルズル啜ったりとか、意図的にぶちまけたりしなけりゃ何だっていいんだよ。魔族なんてそんなもんだぞ? 適当だ、適当」
天界では天使以外の他種族は粗野で野蛮な生き物だと言われていた。だがキラが実際に境界の地で会った者達は、バドで遭遇した連中以外はわりとマトモだった。だからこそキラはエグシスに馴染めたのだ。
「キラは見た目がいいんだから、堂々と構えていればそれっぽく見えるさ」
その実例が目の前にいる。が、どう考えても実例の方が圧倒的に外見がいい。キラは頭を抱えた。
「キラは成長期なんだから、焦っても仕方がない」
「成長期って……、私はそこまで子供じゃないよっ」
小柄なキラは年齢よりも幼く見られがちだが、人間で言えば十七歳程度だ。ちなみにディーは二十代前半に見える。
ムキになって言い返すキラをディーが微笑ましそうに見つめている。
「言葉の綾であって、別に子供扱いしたわけじゃない。俺はキラを愛する女性として見ているんだからな」
「馬鹿ぁっ!」
「キラは本当に可愛いなぁ。ふわぁぁ~……」
ディーが盛大に欠伸をしてソファに寝転がった。肘を曲げた右腕を目に置いて光を遮り、昼寝の体勢になっている。
「ディー、執務は大丈夫なの?」
「眠い」
それだけ言って、ディーは黙ってしまった。……本当に寝たのかもしれない。
キラはレンと顔を見合わせて、静かにお茶を飲む。
ディーは本当に多忙だ。その多忙の合間でエグシスに来ていたというのなら、きっとこれまでかなり無理をしてきたのだろう……。自分がこの城にいることでディーが休めるのなら僥倖だ。
……そんな風に思うということは、ディーに対して心が絆されているのだろうか? 自分はこんなに単純だったのか? それもこれも自分の恋愛経験がなさが原因だ……。
などと考えていたら――、唐突にドアからノックが聞こえた。
これまでキラの部屋にディーとレン以外の者が訪れたことなど一度もない。未知の訪問者にキラは少し緊張する。
「お嬢さま、ご安心くださいなのです」
レンはキラを安心させるように優しく言って、訪問者の応対に向かった。
そうして部屋に入ってきたのは、如何にも仕事ができる紳士といった雰囲気をした壮年の男性だった。
紳士は恭しくキラに頭を垂れる。定規で測ったかのような完璧な立ち振舞いだ。
「お嬢様、お初にお目にかかります。私は当フリューゲル城の家令、名をジルと申します」
「あ、はい……」
うわぁ、何だか凄い。あまりにも完璧な動きに気圧されてしまい、キラはつい間抜けな返事をしてしまった。
見た目の第一印象で位の高い執事か何かかと思ったのだが……、家令? キラには聞き馴染みのない言葉だ。
「……ねぇレン、家令って何?」
「家令は使用人の総統括をしたり、様々な運営管理をする偉くて大変な役職なのです。ジルさまは主さまの右腕なのです」
「へぇ……」
レンの答えを聞いたキラはまじまじとジルを観察する。
ビシッと決まった高品質な黒色のコートとタキシード。綺麗にオールバックでセットされた頭髪はロマンスグレーで、片眼鏡をしている。
何だか見覚えがあるような……と記憶を探ると、エグシスのマスターが脳裏をよぎった。顔立ちがあのマスターと似ている気がする。
「失礼致します」
ジルはそう断ると、昼寝をしているディーに向き直った。
「主様、まもなく会議の時間です。お戻りを」
「……」
眠っているディーは無反応だ。だがそんな主人に動じることなくジルは続ける。
「主様、起きておられますね? どうかお戻りを」
「…………」
「主様」
「………………」
「フリューゲル閣下」
「――……ったく」
意思の強い口調で呼び掛けられて……、ディーが腹からのため息を吐き出しながら億劫そうに体を起こした。
まさに支配者といった鋭い眼光で不機嫌そうにジルを一瞥しているが、ジルは微塵も動じていない。
ディーの舌打ちが聞こえた。
「悪いな、キラ。俺はもう行く」
ディーは頭をガシガシと掻きながら立ち上がった。美しい鴉羽色の長髪が乱れてもったいない。
「う、うん。頑張ってね」
「キラにそう言われると力が入るなぁ。……あ、そうだ」
ディーは思い出したかのように言ってキラに向き直った。
「キラ、明日の午後は時間を空けておいてくれ。チカラを起こすための事前準備をしたい。明日以降も午後にお前との時間をもっと多く作るようにするからな」
「え? 執務とかは大丈夫なの?」
「面倒なことはほぼ片付けたし、体制も整えた。本当は執務のすべてを午前で済ませられるようにしたかったんだが……、まぁ全部は無理だったな」
「……」
まさか自分が来てから続いていたディーの多忙は、午後に自分との時間を作るために色々と改革をしていたから……というわけではないだろうか? そこまでして自分を口説き落としたいということなのか……?
そんなことを考えたキラが唖然としていると、ディーはキラのこめかみに優しく口付けをして退室してしまった。
「お嬢様、お騒がせ致しました。失礼致します」
「あ、はい……」
ディーに続いてジルがキラに恭しく礼をしてから退室していく。
しばしの沈黙の間。
「……ディーって本当に凄い人なんだね……」
自分には態度を崩しているからつい忘れそうになるが……、ディーは夜鴉公ディオルト・ノクス・フリューゲルだ。夜鴉公といえば魔界の外である境界の地にも名を轟かすほど強大な上位魔族なのだ。
「私の前ではあんななのに……」
キラがボソッと呟くと、レンは嬉しそうにクスクスと笑った。
「主さまは本当にお嬢さまが大好きなのです」
「無理をしていないといいけれど」
ディーはキラの前では自然体で振る舞うようにしている。……だが、ああいった人は自分が弱っていることを他者に隠して無理をしてしまうのだとキラは知っている。
「最近の主さまは本当にイキイキとされているのです」
「イキイキし過ぎてバテバテにならないといいけれど」
キラの言葉にレンは耳をピクピクさせた。
「主さまはお嬢さまにお会いすることで元気を補充なさっていると思うのです。ほら、主様ってお嬢さまのここに口付けをされるでしょう?」
ここ、とレンが自分のこめかみを指差している。
ディーは隙あらばキラのこめかみに口付けをしてくる。もはや挨拶代わりと言ってもいいくらいだ。最初はかなり恥ずかしかったが、段々と慣れてきてしまった自分が怖い。
「魔族の習性だと、こめかみへの口付けは番への求愛行動なのです。こめかみへの口付けは『求愛の口付け』とも呼ばれているのです」
「?!」
なんだその謎の習性はッ?! キラはお茶を吹き出しそうになった。
レンは「きゃーっ」と両手で顔を隠して嬉しそうだ。
「だから、主さまはお嬢さまに口付けをなされる度に『愛しているよ』『可愛いね』『大好きだよ』ってお嬢さまにお伝えしているのですよっ。きゃーステキ!」
「し、知らないよっ。そんな魔族の習性なんてッ!」
キラが慌てるとレンは照れたように頬を赤らめた。
「もはや本能ですからね~。狙ってしているわけではないのです。もしかしたら主さまもご自身の行動に気付いていない可能性だってあるのですよ?」
「……」
いや、それはない。絶対にない。だってディーは毎回楽しそうだから……。そう思ってキラはますます赤面した。
日頃あまり言葉では愛を語らないくせに、ずっと行動でアピールしていたとは。……まさか「全力で口説く」ってそういうこと?!
どうしよう……、合わす顔がない……。
キラはテーブルに突っ伏した。
そんなことがあった夜……。寝間着にガウンを羽織ったディーが夜の寛ぎ時間をキラと過ごすためにやって来た。
ベッドに伏せて枕で顔を隠しているキラを発見したディーが不思議そうに首を傾げている。
「? どうした?」
「…………は、恥ずかしい……」
「えっ? なんで?」
心底不思議そうにキョトンとしているディーに、キラは自然と声を張り上げた。
「こ……っ、こめかみに口付けされるのが恥ずかしいのっ! 意味なんて知らなかったんだもん! 一体何なのっ?! きゅっ……、求愛の口付け、って……っ!」
「……」
キラの発言にディーはしばらく黙り込んで……、クックックッと楽しそうに笑い始めた。
「そうか、バレたか」
「やっぱり確信犯!」
キラは耳も顔も熱くてどうにかなりそうだ。
そんなキラを愛おしそうに眺めていたディーは、フフッと企み笑いをしてベッドに近付いてくる。
「バレたんじゃあ仕方がないよな? これからはもっと積極的にしていこう。いつも一回だけで止めるのに苦労していたんだ」
「な、何回も続けてするものなの?! 恥ずかしくて無理! 心臓がもたなくて死んじゃう!」
「……なぁ、そんなに俺のことが嫌か? 俺は悲しい……」
しょんぼりとした言い方をしてくるが、騙されたりはしない。
「どこが繊細で臆病な男なのっ? も~っ!」
「臆病だとも。だからキラにネチネチした男だと嫌われたくなくて、あまり口に出して言なかった」
恥ずかしさを誤魔化すようにわめいたキラに、ディーは優しくほくそ笑む。
「だが、これからはキラにちゃんと伝わるように手加減せず言葉にするよ。キラ、愛してる。心の底から大好きだ。お前が愛しくて、可愛らしくて、いてもたってもいられない」
「~~~っ! 無理っ! 恥ずかしくて無理ッ! なんでそんなに恥ずかしい台詞をスラスラ言えるのッ?!」
顔を真っ赤にしっぱなしのキラが可愛くて仕方がないというように見つめていたディーだったが、大胆にもキラの横にごろっと寝転がってきた。
突然の急接近にキラは固まるが、ディーは大胆だ。
「俺はお前を口説いているんだから、愛を囁くのは当然だろう?」
そのままディーはグッと耳元に口を寄せる。
「キラ、愛している。心の底から愛している。俺のキラ。俺だけのキラ。俺はお前と一緒に生きていきたい。お前は俺の唯一無二の宝物だ」
「~~~っ!」
耳元で優しく囁かれる低音の甘い声と、こめかみへの丁寧な口付け。その言動一つひとつが心を込めたものだと伝わってくる。
キラは気恥ずかしさのあまりに声が出せなくて、足をバタバタすることで抗議した。
ディーはそんなキラを愛おしそうに見つめながらクックックッと楽しげに笑うと、身軽な動きでベッドから起き上がる。
「言っただろう? 愛ならいくらでも囁けるって」
「私が嫌がることはしないとも言ったでしょ?!」
「本心から嫌がることは絶対にしない。誓うとも。それとも、本心から嫌なのか? なぁキラ、教えてくれ。俺がお前に愛を伝えるのは本心から嫌なのか?」
「も~っ! ふてぶてしいよ!」
「よし。本心から嫌ではないと見なす」
ディーが勝利宣言をした。
「さぁ、俺の可愛いキラ。今夜はゆっくりおやすみ。明日はチカラを起こす事前準備をするからな。明日に備えてゆっくりとおやすみ」
「こんなんじゃ眠れないっ!」
「それなら、このまま俺と一緒に寝るか?」
「それは本心から無理ッ!」
「…………俺は今とても傷付いた。本当に単なる添い寝のつもりだったのに冷たく拒絶された。悲しいから自分の部屋に帰って一人で寂しく自棄酒して寝よう……」
声がトーンダウンしたディーが肩を落としてとぼとぼと部屋から出ていこうとする。
「おやすみ、俺の愛しいキラ。いい夢が見れるように俺が守っているからな。安心してよくおやすみ……」
パタリと閉められたドア。先ほどの騒ぎが嘘のような静寂が訪れる。
……しばらくして、キラはおそるおそるとドアを見た。
ドアの向こうに気配はなさそうだ。本当に帰ったらしい。
「はぁ~~……」
ディーが少し可哀想……と思いそうになったが、やっぱり添い寝でも絶対に無理だ。あの規格外なディーが自分の隣に一晩中いるだなんて想像しただけで心臓がもたない。
もう寝てしまおう! と布団を頭から被った。
「……」
そういえば……。
この城に来てからというもの、天界での嫌な記憶を夢で見ることがなくなった。ベッドの心地よさもあってぐっすりと眠れるから、以前は憂鬱だった夜の就寝が今では楽しみになっているほどに快適だ。
まさか……、ディーがこれまで悪夢から守ってくれていた……?
「……も~~っ」
なんとも言えないもどかしさに、キラは枕に埋めた顔を擦り付けた。




