翼ある者の庇護者
翌日の午後。キラの熱は完全に下がって体調も安定したため、今後キラの翼の治療を進めていく上での診察をディーが行うこととなった。
…………なの、だが……。
「ほら、力を抜いて。リラックスだ、リラックス」
ディーが苦笑しながらそう言っているが、キラはどうしても体に力が入ってガチガチになってしまう。……何故なら、診察のために上半身が裸の状態でうつ伏せで寝ているからだ。
一応タオルケットが掛けているので丸見えではないが、それでも無防備に背中を向けているだなんて緊張せずにはいられない。
「き、緊張しない方が無理なんだけれど……っ」
呂律までガチガチになっているキラに、ディーはクスッと笑っている。
「安心しろ、ただの診察だ。ほら、深呼吸して楽にしてくれ」
ディーは頼もしくそう言う。――が。
「本心は今すぐにお前を抱きたいんだけれどな。俺に組み敷かれたお前のうるんだ瞳を上から見つめたい」
「っ、怖いこと言わないでくれる?!」
これではとても落ち着ける状態ではない……。交際どころか恋愛経験すらないキラにはディーの言葉は刺激が強すぎる。
キラは緊張から逃れるために深呼吸を繰り返した。
「そんなに下心がだだ漏れじゃあ私は口説けないよ」
「ただの冗談だ。勝手に口走っただけで行動には移さない。実際に今日はこめかみへの口付けも我慢しているだろう? 大丈夫だ、大丈夫。俺の理性を信じろ」
ディーの声は自分に言い聞かせているようにも聞こえる。キラはそんなディーなどとても見ていられないから、顔をディーの反対側に向けた。顔が熱い……。
深呼吸を終えたディーがベッド脇に腰掛けた。マットレスが揺れてキラは思わずビクッとする。
「これから背中に触れていくが、それ以上のことは絶対にしない。本当は抱きしめて舐めたいんだけれどな」
「……ディー、調子に乗るなら本気で怒るよ。理性はどこへ行ったの?」
「理性なら頑張って下心を抑え込む仕事をしている」
「理性くん、もっと頑張って。そんなんじゃあ私は絶対に口説かれないし、ディーのこと嫌いになるからね」
「それは嫌だ……。自重するから嫌わないでくれ。――ほら、触るぞ?」
ディーはそう断ってからタオルケットを最小限にめくると、キラの肩甲骨あたりに右の人差し指と中指を置いた。
ディーの指先が予想以上に冷たくてヒヤッとする。
「ひっ……!」
体がビクッと跳ねたキラに、ディーが「あ」と小さく呟いた。
「悪い。俺は手が冷たくなりやすいんだ」
「それなら先に言ってよ……。びっくりするでしょ」
「悪かった。先に温めておくべきだったな」
「冷え性なの? 魔族にも冷え性とかあるんだね」
「手だけなんだがなぁ」
ディーはキラとの他愛ない会話を楽しんでいるようだ。背中を指の腹で優しく触れながら微笑んでいる気配がする。その手つきにいやらしさは微塵もない。チカラを使っているのか、先ほどまで冷たかった指先も温かくなっている。
確かに診察のために触れているのだとわかって、キラは詰まっていた息をそっと吐いて力を抜いた。
「……翼は具現化して出さなくてもいいの?」
「ああ、このままでいい。現状の把握が診察の目的だ」
「現状の把握?」
キラが問うと、ディーは答えに困ったようにため息をついた。
「お前はチカラが上手く使えないんだろう? まずはその原因を探っておきたい。大天使の翼の治療にはチカラが重要となってくる。ただ骨折を治すだけだとおかしな癖がついてしまうからな。どうせ治すならしっかりと治したい。そのためにもキラのチカラを起こしたいんだ」
「チカラを、起こす……?」
「そうだ。大天使の翼はチカラの塊みたいなものだからな。お前のチカラが眠っているのなら起こさないと」
魔族や人間がチカラを使って魔法を操るように、天使や大天使はチカラを使って独自に聖なる術を操ることができる。そして大天使には普通の天使にはない特別なチカラがあるのだ。
それは――《歌》を歌って起こす神秘、天界の平和を保つ偉大なチカラ。そのために天界にはいつも大天使達の《歌》が響いていた。
「キラだって魔法道具なんかに頼らずに自分のチカラを上手く使えるようになりたいだろう? もっと翼を上手く使って、もっと高く、もっとのびのびと飛びたいだろう? 魔界は自由だ。特に俺のフリューゲルではな」
「宣伝してる?」
「そうだな。ついでに有能な俺に惚れて欲しいな」
「自分で自分のことを有能って言い切ったよ、この人……」
呆れているキラにディーはクスクスと笑っている。
ディーはキラと会話をしながら診察を続けており、その指運びには迷いがない。知識のないキラには何が描かれているのかさっぱりわからないが、とても流暢で手慣れた様子だ。
指先の感触が少しくすぐったい……。
「さっきから何をしているの?」
「お前のチカラがどんな状態かを探っている。ぐちゃぐちゃにきつく絡まった毛糸玉みたいなものだから、ほどくための糸口を探している感じだな」
「よくわかんないけど難しそう……」
想像が追いつかなくて頭をひねっていると、ディーが楽しそうに笑った。
「実際に難しいが、だからといって投げ出すような真似はしないさ。俺は翼ある者に優しいんだ。俺は夜鴉公と呼ばれているが、どうして鴉だと思う?」
「え? 髪が黒いから?」
「それもあるな。だが実際は――、俺の翼が黒いからだ」
「えっ……」
驚いたキラは思わずディーに顔を向けた。
ディーの翼の色どころか、ディーにも翼があることすら知らなかった。自分と同じように必要な時だけ具現化する翼なのだろうか? どんな種族の魔族なのだろう?
「ディーは何の種族なの? 魔族にも色々な種族があるんでしょ?」
キラが訊くと、ディーは一瞬だけキラの顔に視線を向けて、また背中に視線を戻した。フッと小さく笑っている。
「まだ、内緒だ」
「私と番になりたいのに、私には内緒なの?」
「お前にだって今はまだ俺に話せないことがあるだろう? 俺だってそうさ。俺は繊細なんだ」
繊細。似合わない言葉にキラはプッと吹き出した。
ディーは心外だとばかりに口を尖らせている。
「俺は繊細で臆病な男なんだよ。お前に嫌われることを恐れている。鴉は神経質な生き物なんだ」
「本当にディーがデリケートな鴉なら、さっきの下心だだ漏れ発言についてどう思っているの?」
「逃げ場のないキラに対して下劣極まりない発言をした。猛省している。本当にすまなかった」
予想外に素直な反省と謝罪だったので少し驚いていると、ディーは眉尻を下げてこちらをまっすぐ見つめていた。
「俺はお前を番にしたい。愛するお前と一緒に生きていきたい。これが俺の望みだ。……それでもお前が番にならなかったらと考えたら不安に押し潰されそうになる。昨夜は寝付けなくて夢見も悪かった。
キラ……、本当にすまなかった。俺を嫌いにならないでくれ」
その懇願はまるで追い縋る幼子のようだった。
先ほどまで直視できていなかったディーの顔を改めて見ると……、綺麗な深紅の瞳の目元には隈があり、倦怠感を帯びた雰囲気だ。昨夜は不眠気味だったというのは本当らしい。
……こちらが悪いことをしているような気分になって、キラは大きくため息をつく。
「ちゃんと反省しているなら、もういいよ。私に嫌われたくないなら、理性くんに『ちゃんと頑張ってね』って伝えておいてね」
キラの言葉にディーは苦く自嘲した。
「ああ。お前が本心から嫌がることは絶対にしない。これから長い付き合いになるんだ。わだかまりなくいこうじゃないか」
「長い付き合いにならないかもしれないのに?」
ほんの軽口のつもりで何気なく言った言葉だったのに、ディーはピタリと動きを止めた。そして酷く傷付いたように悲しげな瞳を向けてくる。
「……なるさ。たとえお前が番にならなくてもな。俺は長生きなんだよ」
ディーはそこで口を閉ざしてしまった。
……空気が重い……。どうやら余計なことを言ったようだ。キラは複雑な思いで目を逸らす。
気まずい沈黙が続く中でも、ディーは真剣な眼差しでキラのチカラと向き合っている。
やがて……。ディーはどこか落胆したように小さなため息をついて、キラの背中からそっと指を離した。
「キラ」
「な、なにっ?!」
「……そんなに身構えないでくれ」
緊張して声が上擦ったキラに、ディーの瞳が悲しげに揺れた。
「今日はここまでにするが、最後に一つだけ教えて欲しい。天界でもほとんど飛んでいなかっただろう?」
「…………そ、れは……」
キラはそれ以上は口を閉ざす。……あまり触れてほしくない話題だ……。
灰色の翼を持つ天使は日陰者だ。純白の翼を持つ天使達から厄介者扱いされて除け者にされる。
キラの翼は灰色だ。だからキラは目立たないようにと翼を隠して生きてきた。翼を具現化して空を飛ぶことも、チカラを使う機会もなかった。
だからキラはチカラを上手く使えないし、大天使のチカラの象徴である《歌》を歌うこともできない。軟弱な翼で上手く飛べないから、バドの連中が放った低級魔法すら躱せずに翼が折れてしまった……。
「……」
暗い表情で黙り込んでしまったキラに、ディーはますます気まずそうな表情で頭を掻いた。
「すまない。詮索するつもりはなかった。……お前もわかっていると思うが、翼は使わないと強くならないんだ。お前にはそれが見られなくて、心配になった。翼を持つ者がこんな状態だと俺は辛い。それがお前なら尚更だ」
ディーは疲れた表情でため息をつきながら立ち上がった。
「状態はほぼ把握できた。やはりチカラを起こして使えるようになった方がいいな。翼の治療は一旦保留だ。焦らずにじっくりやろう。変な治療はしたくない。飛ばないから適当な治療でいい、とは言わないでくれよ? 俺はキラをちゃんと治したいんだ。頼む」
キラに断られるのを恐れているかのように、ディーは一気に話した。
切なげな懇願の眼差しに見つめられて……、キラはおずおずと頷く。
ディーは力なく微笑んで頷き返すと踵を返した。
「今日は気疲れさせて本当にすまなかった。ゆっくり休んでくれ。――レン、キラを頼む」
「わかりました、主さまっ」
それまでこの場にいなかったレンが黒い霧から姿を現して返答した。ディーはそのまま退室していく。
レンは少し不思議そうにディーの後ろ姿を見送って、首を傾げながらキラの身支度を整えた。
「主さま、お元気がなかったのです……。もしかして治療が上手くいっていないのですか? お嬢さま、痛いですか? どうしよう……」
レンが耳と尻尾を下げておろおろとするので、キラはクスッと笑ってレンの頭を撫でた。ふわふわだ。
「大丈夫、痛くないよ。ちゃんと治すために、治療はゆっくりするんだって」
キラの返事にレンは安堵のため息をついた。耳と尻尾がピンと復活する。
「そうなのですね! 主さまは翼に関して魔界で随一の御方ですから、安心して大丈夫ですよっ」
「魔界で随一?」
「はいっ。主さまは民から『翼ある者の庇護者』と呼ばれているのです。主さまが治めるこのフリューゲルは、翼ある民が住みやすい領域なのです」
「そうなんだ……」
だから大天使である私を気にしたのかな、とキラは首を傾げた。
「そんな評判を聞いて、フリューゲルには他の領域で居場所をなくした翼ある者が来やすいのです。そういった者達を主さまは区別なく手厚く保護して、安心して暮らせるように支援なさっているのです。この城にも翼を持つ種族がたくさんいますよ」
「でも、レンには翼はないんだよね?」
レンは尻尾を揺らして頷いた。
「主さまは翼の有無で差別なんてしません。主さまの側近には翼のない種族の方もいます」
そう話すレンはとても誇らしげだった。本当にディーのことを心から敬愛しているのだろう。
そういえば……、とキラは口を開く。
「ディーの翼は黒い、って聞いたけれど……」
キラの言葉にレンは嬉しそうにパチリと手を合わせた。
「はい! 本当に美しい黒の翼とのことです!」
「? レンは見たことはないの?」
「主さまはご自分の翼を人目に晒すことを好まれません。たとえ側近でも至近距離で見たことがある者は少ないと思います」
「そうなんだ……」
……ディーは自分と同じなのかもしれない、とキラは思う。
自分もディーも自分の翼を無闇に晒したくない。だからディーはキラの気持ちを理解して会話を切り上げてくれたのだ。本来のディーはきちんと相手の気持ちを慮ることができる人物なのだろう。
「ずっと昔に魔界で大きな戦争があって、主さまは圧倒的な翼のチカラで戦争を終結に導いたそうなのです。その姿から夜鴉公と呼ばれるようになった、とも聞いているのです」
「翼のチカラで……? 魔族の翼のチカラってどういうものなの?」
「あの、すみません。私はそれ以上は知らないのです」
レンは困ったように微笑んだ。
「戦場では苛烈な御方だと聞きますが、普段の主さまはとてもお優しい御方です。もちろんお仕事の時はキリッとされていますし、厳しくて怖い時もありますけれどね。そんな主さまが皆大好きなのです。そしてこのフリューゲル城は、そんな主さまの居城なのです。お嬢さまもゆっくり静養できると思いますよ」
「そっか……」
キラが微笑んで応えると、レンは嬉しそうに尻尾を揺らした。




