初めての
仕立てる衣装は一着だけのつもりだったキラに対して、衣装作りにパッションを爆発させた衣装係軍団とメイド達……。
彼女達とのバトル――もとい打ち合わせをした結果、仕立てる衣装は普段着用のワンピースドレスを四着と社交用のパーティードレスを一着となった。
それから数日後。完成したワンピースドレスがキラの元に届けられた。
「さぁお嬢さまっ、早速お着替えしてみるのですっ!」
「ふふっ、楽しみですね」
キラ専属のメイドであるレンは当然として、ディー専属のメイドであるシシーがかなり楽しそうだ。
「い、今から? 別に今日でなくてもいいんじゃないかな……?」
昼食を終えてソファでダラダラと寛いでいたタイミングでのお着替え……。衣装を仕立てた際に味わった大変さがよぎってゾッとしてしまったキラは消極的だ。
気乗りしていないキラにメイド二人がグイッと攻める。
「一着だけでいいのでお着替えをしてみるのですっ。そして主さまをびっくりさせるのですっ!」
「そうですよ、お嬢様。昼食でお会いした際とお嬢様の装いが変わっていれば、主様を驚かせることができますからね。主様が元気になられること間違いなし、ですよ」
「うっ……」
二人の提案にキラはつい「なるほど……」と思ってしまった。というのも、最近のディーは多忙でお疲れ気味なのだ。
執務室での仕事時間が伸びている上に、城外の視察や来客との謁見などが重なっているらしい。そのためにディーが執務を終えてキラの元に戻ってくる時間が連日遅くなっており、夜の大人のふれあいも少し物足りな――……。
そこまで考えて、キラはハッと我に返った。昼間からなんて破廉恥な想像を……!
……コホン、と咳払いをして自分の心を落ち着かせる。
とにかく。多忙なディーが疲れているのは確かだ。それを労うという意味では彼女達の提案は悪くない……のかもしれない。
「えっと……。それじゃあ、着替えようかな」
「はいなのです!」
「お任せくださいな」
キラのやる気を引き出すことに成功したメイド達は、将来フリューゲルの女主人となるキラの着替えをサポートしていく。
……昨夜できた口付け跡が胸元に残っていたが、きちんと心得ているメイド達は見て見ぬふりをしてくれたのでホッとした。
選ばれたワンピースドレスの基本型はAラインで、プリーツ入りのスカートがふわっと踊るデザイン。色は淡いシャンパンカラーだ。
刺繍入りのシフォン生地で仕立てられており、軽やかで可愛らしい雰囲気を演出している。
キラはこれまでシンプルな衣装ばかりを着てきたので、キラ的には攻めたデザインだったのだが――。
「わぁ……! お嬢さまっ、とってもお似合いなのです!」
「……うん。結構気に入った、かも……」
両手をパチリと合わせてはしゃぐレンに、キラは正直な感想を述べた。
女を全面的に押し出していた乱入令嬢とはまったく違う、春の木漏れ日のように穏やかでふんわりとした可愛らしさ。
キラの動きに合わせて上品なプリーツスカートが波打つように揺れている。
スカートの動きが気に入ったキラは、目を輝かせながら姿見の前で何度もチェックしてしまう。
そんなキラの背後で、シシーがふふっと嬉しそうに微笑んだ。
「さぁ、お嬢様。髪型も変えてみましょうね」
「……うーん……」
シシーの提案にキラの心が揺れる。
ヘアアレンジに慣れていないキラは髪を結われて頭皮が引っ張られる感覚が苦手……なのだが、この衣装に合った髪型をしてみたい気持ちもある。
「あの、あのね。結ったりするのは頭が痛くなっちゃうから、あまり好きじゃなくて……」
キラが正直に話すとレンが猫耳をピンと立てた。
「お任せくださいなのですっ。お嬢さまのご負担にならないようにするのですっ!」
「うん。じゃあ……、お手柔らかにね」
「はいっ」
ドレッサーの前に座ったキラは不安から表情が強ばっている。
だが――、そんな苦手意識はメイド二人の技術によって塗り替えられた。
ドレッサーに映っているのは甘い雰囲気のアップヘアに、小花を散りばめた髪飾りをつけた自分の姿……。頭皮の不快感はまったく感じられないし、何よりも自分に似合っているのだ。
プロがやるとここまで違うものなのか……。キラは感動すら覚えている。
そんなキラにシシーが満足げに微笑んだ。
「お嬢様、軽くお化粧もしてみませんか?」
「う、うん。……でも、大丈夫かな……?」
キラは化粧が苦手だ。化粧をした経験がほとんどないし、天界にいた頃はスキンケアだってまともにしていなかった。
……そんな自分が化粧をしたところで、どうせ似合わないに違いない……。
「どうか、ご安心を。このシシーにお任せくださいな」
シシーは不安げなキラの肩に優しく手を置いて、迷いなく頷いて微笑んだ。
キラは自己肯定感が低い故に自身の容姿を過小評価しているが――……、実際は決して醜悪ではない。
天界で受けてきた迫害のせいで痩せた体型が悪さをしていたのであって、むしろ土台は整っているくらいだ。
この城に来てからはレン達の手で高品質な化粧水や香油でのスキンケアとマッサージを施されているし、飲食物も質が高くバランスの良い物ばかり。
そのおかげで肌質も体型も、すべてのコンディションが改善されている。
そんな宝石の原石であるキラに、シシーが適切なメイクを施していく。
化粧といってもベースメイクはほんの少しで、後は優しい色合いのアイシャドウとチークをふんわりと重ねる。たったそれだけなのに、可愛らしさが一気にアップした。
「わぁ……っ!」
自分がここまで可愛らしい雰囲気が似合うとは思っていなかった。それも「子供っぽい可愛らしさ」ではなく「女性らしい可愛らしさ」だ。
ディーが事ある毎に言ってくる「キラは可愛い」とは、この事なのか……?
「お嬢さま、すっごーく素敵なのですっ!」
「とってもお似合いですよ。ふふっ、主様の反応が楽しみですね」
「う、うん……。ふふっ。ありがとう、二人とも」
着替える前は心の底から辟易としていたが……、こうして変わった自分を見るととても嬉しくて心がくすぐったい。
何だかとってもいい気分で「次に衣装を仕立てる時はもっと楽しめちゃうかも……?」と意識の変化も起きている。
少し照れながらはにかんでいるキラに、レンとシシーも満足そうだ。
着替えが終わったキラはレンが淹れたお茶を飲みながらソファで休憩することにした。
「ふぅ……」
装いが変わると立ち振舞いも自然と変わってくる。かといって無理をしているわけではなく、これまでレンから教わって身に付けてきた所作が自然とできている感じだ。
何だか自分が一気にそれっぽくなった感じがしてくる。
これなら夜鴉公の隣にいても変ではない、かも……?
「…………」
何だか妙に緊張してきた……。
先ほどまで考えないようにしていたが、執務を終えたディーが何も知らない状態でこれからやってくるのだ。
自分的にはこの姿を気に入ったのだが……、ディーの目から見たらどうなのだろう?
「……大丈夫かな……?」
ポツリと呟いてそわそわしていると、前触れもなくドアがガチャッと開いた。
そしていつもと同じように室内に入ろうとしたディーが、キラを見た途端に動きをピタッと止めた。
「あ」
キラは思わず固まったが、ディーもまたキラを見つめたまま固まっている。
「……ね、ねぇ? どう、かな……?」
キラが恥ずかしさと照れ臭さでもじもじしながら訊ねると……、ディーは無言で俯いたままスタスタとキラに近寄ってきた。
そのまま迷いなくキラをふんわりと抱きしめてきた……のだが、その手と体が何故か震えている。
「ディー、どうし――……えっ? 泣いてるの?!」
不思議に思いながら彼を見上げたキラは、驚きのあまりに大きな声を出してしまった。
あのディーが肩を震わせながら声を殺して泣いている……。
空気が読める良くできたメイド二人は、主人が人払いを命じる前に速やかに退室していった。
「えっと……。ねぇディー、どうかな? 変じゃない?」
この状況に耐えきれずにキラが訊ねると、キラを抱きしめているディーの手に力が入った。
「…………俺のキラが可愛すぎて心臓が痛い……」
「ええぇ……?」
彼の震えた掠れ声に困惑しつつも、この反応には嬉しさが込み上げてくる。
キラがディーの背中を優しく擦ると、ディーはようやく顔を上げてキラの瞳を見た。
涙目で頬を紅潮させたディーが慈しみの眼差しで優しく微笑む。……その微笑みは彼の美貌と合わさってとんでもない破壊力だ。
「あぁ、本当に可愛い……。とても素敵だよ、キラ。俺にはもったいないくらいに可愛くて綺麗で、直視できない」
「……ふふっ。天下の夜鴉公が、何か変なこと言ってる」
圧倒的な美形であるディーの言葉が可笑しくて笑うキラに、ディーもまたふふっと笑う。
「最近キラが配下共と何かやっているなぁと思っていたが、衣装を仕立てていたのか。凄く似合っているよ」
「ん……。その……、ありがとう」
「そうやって恥ずかしがっている姿もいじらしくて可愛いなぁ……。守りたくなる」
そう言ってディーは再びキラをふわっと抱きしめて、左右のこめかみに心を込めた求愛の口付けをした。
こうしてディーに抱きしめられていると、彼の温もりと匂いに包まれて安心する……。
「ディー……」
無意識にディーを呼ぶと甘えた声音になってしまった。
キラの恥ずかしい気持ちを上書きするように、ディーは自然な動きでキラの唇に口付けをする。……ディーの唇がいつもより熱く感じたのは、おそらく気のせいではないのだろう。
そうしてディーはしばらくの間キラを離さなかったのだが――……、やがて名残惜しみながら抱擁を解いた。
「ねぇ、ディー。私もいつもと違う服装のディーが見てみたい。もちろん今日じゃなくていいからね」
ディーは誰にも負けない美丈夫な上に、魔界の序列第三位という強者だ。そんな彼が装いを新たにすれば大層見映えがするに違いない。
キラの期待の眼差しにディーは苦笑して肩を竦めた。
「かなり気合いが入った格好でなければキラと釣り合わないな」
「無敵の夜鴉公が、また何か変なこと言ってる」
「お前こそ自分の魅力をちゃんとわかっていない」
「もう……っ」
キラがディーの言葉に呆れていると、ディーはクスッと笑ってキラと横並びでソファに腰掛けた。
隣から熱い視線を感じたので見ると、飽きることなく見つめてくるまっすぐな眼差し。
美しい深紅の瞳が夢心地といった様子で細められる。
「俺の愛しいキラは俺をどれだけ夢中にさせれば気が済むんだ? お前のこんな側面を知ったら執務なんてしていられるか。一日中お前の隣で見ていないともったいない」
「ちゃんとお役目を果たしてよ、夜鴉公さん」
「ああ。まずはフリューゲルを治める者として、この城とフリューゲル領域外縁の結界を見直そう。この城で俺のキラを狙う命知らずな虫ケラは湧かないが、城外やフリューゲル外から入り込まないとも限らんからな。万が一見つけたら一匹ずつ丹念に磨り潰さないと」
「ええっ? 自分に言い寄ってくる女の人は無視するのに、私に言い寄ってくる男の人は無視できないの?」
「当たり前だ」
キラは思わず笑いそうになったのだが、それに対してディーは極めて真剣な表情でバッサリと断言した。
「俺のキラに手を出すなんて赦すものか。万死に値する」
「それを言うなら、私だってディーに言い寄る女の人が気に入らないんだけど……」
「っ、本当かッ?!」
怖いほど真剣だったディーの表情が、不満げなキラの言葉でパァッと明るくなった。
期待に満ち溢れてキラキラした目でキラを見つめてくる。
「なぁキラ、あの時の言葉をまた言ってくれよ」
「あの時の言葉?」
「あのアマに言った言葉だ」
あのアマとは乱入令嬢の事か。はて、私はあの無礼なおねーさんに何を言ったんだっけ?
キラは少し考えて――……。
『私のディーに、何をしたの?』
「――あっ」
思い出した途端、急激に恥ずかしくなってきた。
火が噴き出そうな顔を両手で覆って背中を丸めたキラの反応に、ディーは大層ご満悦だ。
キラの背中を抱きしめるように上体を覆い被せて、顔をグリグリと擦り付けてくる。
「なぁキラ、番になったら二人っきりで甘い蜜月を過ごそうな。思う存分、耽溺に更けよう。最低でも数ヵ月はお前を離さないし、そもそも離れられないからな」
「?!」
今ディーが恐ろしい発言をしていなかったか? キラは耳を疑った。
「よ、夜鴉公のお役目をちゃんと果たしてってさっき言ったばかりでしょっ?! 私から離れてちゃんと執務して!」
キラが諌めの言葉を喚くように言うと、ディーは心外だとばかりに顔をしかめた。
「俺がちょっと不在になった程度で揺らぐ脆弱な体制は敷いていないから大丈夫だ。それに側近共だって番の蜜月がどれほど大切な期間なのかを知っている。俺達の邪魔をする奴は誰一人いないから安心しろ」
「世間一般では『最低でも数ヵ月』を『ちょっと』とは言わないのっ!」
「そうは言っても、キラだって俺との番の縁が結ばれた途端に俺から離れられなくなるんだぞ? 強力な磁石のようにピターッとくっついて離れられなくなる。これは抗いようのない番の本能だ」
「えっ……。ちょっと怖いんですけれど?!」
どうやらキラには知らない番の常識がまだまだ存在しているようだ……。
キラが衝撃を通り越して遠い目をしていると、ディーは嬉しそうに笑いながらキラの肩を抱き寄せて求愛の口付けをした。
「あぁ、俺のキラは初心で可愛いなぁ」
「ディーだって恋愛初心者でしょ?! 人生経験が私より豊富で知識があるからって自分を棚上げにしないでっ!」
「あぁ、そうだな。初心者同士で色々と試して楽しもうな。色々と、な?」
「も~っ! その言い方はやめなさいってば!」
「今の発言のどこが問題だったんだ? キラ、詳しく教えてくれ」
「この変態鴉! もう知らないッ!」
拗ねたキラがプイッと顔を背ける。
そんなご機嫌斜めな恋人の姿さえ愛おしいのか、ディーはクスッと笑ってソファから立ち上がった。
「キラ、機嫌を治してくれ。お前の反応が可愛すぎて調子に乗ったのは謝るから。な?」
「……」
チラッと横目でディーを見ると……、ディーは腰を曲げた体勢でキラの様子を窺うように小首を傾げながら右手を差し出していた。絶対的強者である夜鴉公にあるまじき低姿勢だ。
……少し悩んだものの、キラは軽くため息をついてからディーの右手に左手を乗せる。
「?」
今、何か妙な間があったような……?
「……ねぇ、ディー? 手の甲に口付けするかを一瞬悩んだでしょ?」
半ば確信したキラの問いに対して、ディーはクックッと楽しげに笑う。
「懲りずに調子に乗っていると怒られそうだから我慢した」
「もう……」
ディーは握ったキラの左手を右親指の腹で擦るようにやわやわと撫でている。これで口付けを我慢しているらしい。
そんなディーにキラはやれやれとため息混じりに笑うと、ディーの右手をグッと掴んで立ち上がった。
「悪いと思っているなら、お詫びにピアノを弾いてよ」
「お前のためならいくらでも弾くとも。俺の部屋に行こう」
「うん」
ディーはキラと腕を組んでエスコートしながら廊下を歩いていく。所作が様になっているのはさすが魔界の公爵、夜鴉公だ。
そう思って……、キラは少し複雑な心境になった。
ここはフリューゲルに君臨する夜鴉公の居城だ。夜会などの社交場もあるだろうし、そうした華々やかな世界でディーは女性と関わった経験があるに違いない。
……パーティー会場でディーが見知らぬ美女と一緒にいる光景を想像して、心がチクッと痛んだ。
「……」
衣装を仕立てるにあたって、キラも社交用のパーティードレスを一着作った。そのドレスはまだ手元に届いていないのだが、色はディーの瞳に近いワインレッドにしたのだ。
ディーがドレスの色を見て喜んでくれるといいなと少しワクワクしていたのだが……、自分はディーと一緒にいて当たり前だと場違いな思い上がりをしていたのかも……。
「ディーはこれまで綺麗な女性をエスコートしたり踊ったりしてきたんだね」
「していない」
ささくれ立った心のせいで少し意地悪な口調を放ってしまったのだが、そんなキラの言葉をディーはあっさりと否定した上に鼻で笑った。
予想外な返答にキラは思わず立ち止まってディーの顔を見上げる。
「……え? でも、夜会とかの社交で女性と接する機会が何回もあったんでしょ?」
「だから、ない。俺が『近寄るな』と言えばそれで事足りる。フリューゲルの頂点である俺に格下側から話し掛けるなど、無礼極まりない行為だからな。それでも俺に近寄ろうとする命知らずがいれば、俺を狙って目をギラつかせた欲望の塊か、脳内がお花畑で俺に好かれていると勘違いしている馬鹿だ。俺がそんなゴミを相手にすると思うか?」
「それは……。でも、それならどうしてこんなにエスコートが上手なの?」
キラの問いが意外だったのか、ディーはキョトンとして何度も瞬きをしている。
「そう言うお前こそ、他の男にエスコートされた経験があるのか?」
「えぇっ? まさか。そんなのあるわけないでしょ」
「それなら、上手いか下手かなんてわからないだろう? お前が上手いと思ってくれて嬉しいよ」
ディーは「それに」と悪戯っぽく微笑んで目を細める。
「俺が他の女を触ったことがあると思って嫉妬してくれたんだな? 可愛い奴め」
「うっ……」
キラが顔を赤くして口ごもると、ディーはふふっと笑って求愛の口付けをした。
そうしてピアノがある自分の趣味部屋にキラを通したディーは、室内のソファにキラが座るまで丁寧なエスコートをやり遂げた。
キラの手の甲に口付けを落とし、目と目を合わせてじっと見つめてくる。
「俺にはお前以外の女なんて不要だ。俺の隣にいていい女はお前だけだ。キラ、愛している。苦しいほどに愛している。お前と番になりたい。お前と一緒に生きていきたい。そのためなら俺は何でもする」
「……ディー……」
ディーの一切迷いがない眼差しと言葉にまっすぐと射抜かれて、キラの胸が熱くなる。
――……彼はこんなにも一途に想ってくれているのに、さっき自分は彼を疑うような真似をしてしまった……。
キラが黙ったまま見つめ返していると、ディーはどこか悲しげに微笑んだ。
「だが……。俺の番になるということは、大天使のお前が魔族化しないといけないということでもある。それでお前が俺の求愛の返事にますます慎重なのだと、俺はちゃんとわかっている。俺はいつまでも返事を待つし、絶対にお前を見放さない。……お前の返事がどんなものであっても、俺はお前の選択を受け入れる」
「…………」
ディーの冷たい指先がキラの頬をそっと撫でた。
「なぁキラ……、俺はこうしてお前が傍にいてくれるだけでも幸せなんだ。俺の心と体はお前だけの物だ。俺の存在すべてがお前の物だ。全部、全部お前にやる。俺の体はお前が好きに弄っていい」
「……っ?! ま、またそうやって恥ずかしいことを平気で言うんだから……っ。ほらっ、ピアノ弾いてよっ!」
キラはいつの間にかじわじわと迫っていたディーの体を両手で押し返しながら真っ赤な顔を背けた。自分を求めて迫り来る美形の圧は心臓に悪い。
ディーは必死で顔を背けているキラの様子にクスッと笑うと、微かに触れる程度の軽い求愛の口付けをしてピアノに向かった。
「さて、何を弾く?」
「ディーに任せるから色々弾いてよ。私の好み、わかるんでしょ?」
自分を試すような恋人の言葉に、ディーはクスッと笑ってから鍵盤に指を乗せる。
「了解」
音程の確認と指慣らしのために軽く音を鳴らした後、ディーは滑らかな指捌きで音色を奏で始めた。
以前ディーが語っていたように、キラは単調なメロディーが繰り返されるような曲よりも物語性のある曲が好みだ。
物語性のある曲といっても色々とある。胸踊るような冒険譚を彷彿とさせる曲調や、生命の躍動を想起させるような壮大な曲。
もちろんそういった曲も好きだが、キラが特に好きなのはどこか寂寥感や儚さを感じさせる曲調だ。
廃退的な美しさとでも表現すべきか。終末世界の静かな終焉を思わせるような物悲しさや、忘れ去られた古の遺跡を歩くような郷愁……。そういった切ない雰囲気に惹かれてしまう。
自分は一応大天使なのだからこの好みはどうなのかと思うのだが、ディーは「別におかしなことじゃないさ」と微笑んでキラを認めてくれた。
そういえば、ディーは秋が好きだと語っていた。「穏やかな哀愁、侘しく切ない雰囲気が好きだ」と。
ディーと自分は似た者同士なのかもしれない……。そんなことを思いながら、キラはピアノを演奏するディーを見つめる。
真摯にピアノと向き合う後ろ姿。その全てが格好いいと素直に思って――……。
……あぁ。自分はこれほどまで彼に惹かれているのか、と自覚して。
「――、――――」
ディーのピアノに合わせて鼻歌のようなハミングを口ずさむ。
こうしてディーの演奏に合わせてハミングを紡ぐと楽しくて、まるでディーの心と同調するかのようなくすぐったさも感じて、心がとても暖かくなる。
キラはハミングを歌いながらソファを離れて、ディーの傍に近付いてその姿を見つめた。
まっすぐと鍵盤に向けられた伏せ目ぎみな深紅の瞳。滑らかな動きで鍵盤を踊っている指先……。そのどれもが美しくて絵になってしまう。
自分の恋人は本当に規格外な存在だと思いつつ、キラはディーの右肩にそっと触れた。
キラに触れられたディーは嬉しそうにふふっと微笑みながら、ピアノ演奏を続けている。
「――――、――、――――!」
まるでディーと共鳴したかのような高揚感。キラはハミングをのびのびと気持ちよく歌っていく。
ディーが奏でている曲は季節の移り変わりを彷彿とさせる曲調だ。
穏やかな春のメロディーが生命力溢れる夏のそれへと変わり、秋の空気を緩やかに感じさせながら、やがてしんしんと降り積もる雪の情景へと落ち着いていく。
そして再び、春が訪れる――!
「――――《a》――……!」
高揚感が限界点を越えた瞬間、声が勝手に出た。
その瞬間――。
ゾクゾクッとした何かが頭の天辺から足の爪先、更には具現化していない翼の先端にまで一気に駆け抜けた。
そこにあるのは不安でも羞恥心でもなく、ただ素晴らしささえ覚えるほどの歓喜と高揚感――!
「《ra――、a――――、a――……!》」
ディーの演奏の盛り上がりと共鳴するかのように、歌詞にはならない声が止まらない。
嗚呼……、喜びの感情が溢れて止まらない――……ッ!
「《ra――a、aa――、ra――……!》」
ピアノの演奏終了と同時に溢れ出ていた声もまた素晴らしいフィニッシュを迎えた。
「……ぁ……」
何か大きなことをやり遂げたかのような爽快感と達成感から反射的にディーにしがみつくと、ディーはふわっと優しく抱きしめ返してくれた。
「ねぇディー、ディー……っ! ねぇ、今のって――!」
興奮するキラに、ディーの抱擁に力が入った。
「――ああ。そうだ、キラ。今の衝動と感覚が大天使の《歌》だ。初めて歌えたなぁ。キラ、俺の可愛いキラ……。本当に、本当に、おめでとう……っ」
ディーの声は感極まって後半が掠れている。
そんなディーの声音にますます刺激されて涙腺が緩んでしまったが、それ以上に興奮が抑えきれないキラは化粧や髪型が崩れるのを忘れてディーにギューッと抱きついた。
今のが、今のがっ、大天使の《歌》――!
天界にいた頃は自分とは無縁だと思っていた、大天使のチカラの象徴である《歌》。
フリューゲルに来てディーと共に過ごす日々の中で、自分も歌えるようになりたいと、何よりもディーに聞かせたいと切実に願ってきた大天使の《歌》。
それを、今、自分が――……!
「ディー……っ!」
どうしよう。喜びが止まらない。興奮が止まらない!
ギュウギュウとしがみついてくるキラに、ディーはフフッと嬉しそうに笑って何度も求愛の口付けをした。
「さぁキラ、もっと歌うか?」
ディーがキラを誘うように鍵盤を軽快に鳴らすと、キラの笑顔にパァッと満開の花が咲いた。
「うんっ!」
軽快なピアノの音色に合わせてキラは歌う。
左手をディーの肩に乗せて。
心もディーに寄り添って。
回数を重ねるほどに喉が開いて《歌》が出やすくなって。
そうすると感情がますます高ぶって――!
――――……最後は充足感と酩酊にも似た心地良い感覚に包まれて……。キラは今、ディーの腕の中にくた~っと収まっている……。
ククッ、とディーが笑う声がした。
「初めて《歌》を歌ってチカラを解放したから酔ったんだな……。あぁ、可愛い……。なんて可愛い酔っ払いなんだろう。なんて可愛くて、愛おしい……。本当にどこまで俺を夢中にさせれば気が済むんだ、お前は!」
ディーの求愛の口付けが止まらない。キラの《歌》と感情に共鳴したことで彼もまた軽い酩酊状態となっているのだ。
多幸感に包まれながら微睡み始めたキラは、口付けの雨に蕩けた表情を浮かべて、まるで子猫のようにディーの胸板に擦り寄っている。
そんな無防備すぎる恋人の唇にディーはチュッと口付けをして、キラの脱力した体を優しく姫抱きした。
「やぁっ、離しちゃやだぁ……っ」
寝室のベッドに横たえられたキラが眠気に抗う赤子のようにぐずっている。
ディーは軽く苦笑しながら添い寝して、キラの華奢な体を優しくぎゅっと抱きしめた。
「こらこら、おとなしく寝なさい。初めての《歌》で色々なバランスが崩れているんだ。いい子だから眠って、休もうな。目が覚めるまで傍にいるから」
「ディー、ディーぃ……っ」
「ここにいるよ、キラ。俺はここにいる。大丈夫。俺はお前の傍にいる。絶対にお前を離さないから……」
頼もしい腕に抱きしめられて。
背中をトントンとあやされて。
彼の体温と匂い、呼吸音さえも心地良くて――。
――……キラはあどけない微笑みを浮かべながら、すぅっと眠りに落ちていった……。
その後――。
目を覚ました直後に自分の行いを思い出して茹でダコとなったキラがデレデレ状態のディーをポカポカと殴ったり、そんな主人と恋人の仲睦まじい光景を見たレンとシシーが笑顔で小さくハイタッチをしたりといった平和な騒動があったりもしたのだが……。
――それはまた、別のお話。




