プロローグ:始まりの町にて
「お前なぁ、本当にわかっているのか? いいか? この街からは絶対に出ない。知らない奴にはついて行かない。知っている奴でも警戒心を持て。金目の物を見られるな。本当に危ないからな。わかったか?」
もはや何度目なのかわからない黒髪の友人からの忠告に、栗毛の少年キラはため息混じりに「わかってるよ」と苦笑しながら返事をした。
ここは天使達が住む天界と魔族達が住む魔界との中間にある狭間の地、そこで多種多様な種族が入り雑じり暮らす街エグシスだ。
エグシスは住む者も訪れる者も問わず、その過去や正体を互いに詮索せずに過ごすことができるという、非常に懐が深い街だ。大勢の人々が行き交うこのバザールでも人間や獣人、その他にもキラが知らないような不思議な種族が混在しており、顔に大きな傷跡がある者も明るく笑い声をあげて談笑している。
迫害から逃れるように故郷を出奔してきたキラにとって、エグシスはありがたく居心地がいい街だった。
ここはキラが皿洗いの手伝い仕事をしているカフェバーだ。店の外に広がるバザールの陽気な空気に表情を緩ませていると、目の前のカウンター席で友人が再び盛大なため息を吐き出した。
「お前なぁ……、俺が言っていることを本気で理解できているのか?」
「わーかってるよ、ディー。心配しなくても大丈夫。小さい子供じゃあるまいし」
「お前はガキみたいなもんだろうが」
「そう言うディーは僕のお父さんか何かか?」
「お前の親父でも何でもいいから、俺の言うことを聞いておけ」
「わかった、わかった」
「……本当かぁ……?」
こちらをジト目で見てくるディーは、キラがこの街で特に親しくしている友人だ。正確に言えばディーはエグシスの住人ではないのだが、この街に遊びに来る度に毎回こうしてキラを気に掛けてくれている。
故郷では孤立し窮屈な思いをしていたキラにとって、困った事や楽しい事を気軽に話せるディーのような友人の存在も、人生で初めて手に入れた自由な生活も、すべてが新鮮で嬉しいものだった。
そんなキラの状況が心配らしく、ディーはいつも忠告をして助けてくれている。このカフェバーの手伝いもディーが紹介してくれたもので、ディーが古くから通って信頼しているここのマスターに融通を聞かせてくれたのだ。
エグシスに来てから初めて他種族と出会ったキラには、ディーの種族も年齢もわからない。こうして見ればディーは黒髪黒眼の人間の青年だ。だが……、姿はいくらでも変えられるのだ。
キラは胸元の服を密かに握る。キラはこの服の下に隠し持っている魔法道具のペンダントによってこの姿に《擬態》をしているのだ。
壮年紳士といった様相のマスターも人間に見えるが、マスターはディーをまるで貴族か何かのように接している気配がある。
とにもかくにも、ここは互いの詮索は厳禁な街。ディーが何者であっても、ディーがキラの正体に気が付いていたとしても、見て見ぬフリをするのがこの街の礼儀だ。
「なぁ、本当に大丈夫か?」
「大丈夫だってば、ディー」
キラもこの街が完全に安全ではないことは理解できている。
こんなにも人が多く集まる街だ、物騒なのは当然のこと。ましてやこの街には元罪人も現役の犯罪者もいるのだろう。現に先日は近所に泥棒が入ったらしいと噂で聞いている。
その事を伝えると、ディーは再びのジト目で一瞥してきた。
「ちゃんと戸締まりはしているんだろうな?」
「してるよ。大丈夫だよ」
「……お前の大丈夫はアテにならないからなぁ……」
ディーがこうしてキラを心配するのには理由がある。
キラがディーと初めて出会ったのは、キラがこの街に来てからほんの数日のこと。ここでの生活にまだまだ不慣れだったキラは、骨董品マーケットの路地裏でチンピラに絡まれてカツアゲに遭うところだったのだ。そこへたまたま通り掛かったディーが二度見した後にチンピラを蹴散らして助けてくれた、という経緯がある。
その日からディーはキラを気に掛けてくれている。おそらくディーにとってキラは「頼りない世間知らずな弟分」といった認識なのだろう。
「掘り出し物は見つかった?」
ディーは今日も骨董品マーケットに行っていたそうだ。話題を逸らしたくて話を振ると「それがなぁ……」と顔馴染みの骨董品の本日の品揃えについて愚痴り出してくれた。
彼には変わった物の収集癖があるらしい。収集対象は綺麗な器、変な形の小物、いわく付きの武器……。とにかく様々だ。
実際に彼とマーケットを散策してみてキラが驚いたのは、ディーの知識の膨大さだ。この道具が何年前のどこ製の物だとか、あの器はどの工房の何代目の誰某の作なのだとか……。とにかく店主以上の審美眼で見定めている。
どちらにしても、実際の真贋はキラにはわからない。ディーが実際に商品を購入する様子を見たことがないので、ただ単にマーケットを眺めて楽しんでいるだけなのかもしれない。
「あー、酒が飲みたい」
ひとしきり愚痴ったディーが心の奥底からの声をあげると、カウンターテーブルへと突っ伏した。ディーの頭突きを受けたカウンターからガンッと実に痛そうな音が響く。
カフェバーではこの時間帯でも酒類の提供をしているのだが、少なくともキラが知る限りではディーはここで酒を飲んだことがない。酒を飲んだ状態での帰路が困るから、らしい。一体どれほど遠くに住んでいるのやら……。
カウンターに伏せたまま「うがぁぁ」と唸るディーに苦笑し、キラはそっとサービスの氷水を差し出した。
ディーは額に触れた冷たいグラスに視線を上げ、億劫そうにキラを見上げ、もう一度グラスをジト目で見て……。ため息の後に一気に飲み干す。
チッと不機嫌な舌打ちが聞こえた。
「マスター! ダキリア酒のハイボールッ!!」
「お帰りになられては?」
ディーの投げやりな注文にマスターが苦笑している。ここではディーは飲まないというキラの認識が当たっていたようだ。
キラと目が合ったディーが不機嫌そうにムッと口を尖らせた。
「帰る」
ディーはガタッと席を立ち、盛大なため息をついて出口に向かう。
「ディー、帰り道には気をつけてー」
「お前がなッ! くれぐれも俺の言うことを聞けよ?!」
最後の最後までこれだ。
友人の背中がバザールの喧騒の中へと消えていくのを見届けて、キラはマスターと顔を見合わせた。お互いにやれやれ……といった表情だった。
ディーは自分に初めてできた大切な友人で、恩人だ。彼には本当に良くしてもらっている。
ディーが自分を心配する気持ちはわかっているつもりだし、マスターも自分がエグシスで不自由なく暮らせるように手を貸してくれていることもわかっている。本当にありがたいことだ。
だが――……、自分にはどうしても二人に話せていない秘密がある。恩人の彼らを騙している後ろめたさに似た感情が込み上げてきて落ち着かない。
その秘密を隠す能力のペンダントを服の下で握り、キラは大きくため息をついた。




