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弦巻天竹 人形夜話

竹林の雨

作者: 黒森 冬炎

 弦巻天竹(つるまきてんちく)は、新進気鋭の人形作家である。天竹は人形作家としての雅号であり、本名は甚五(じんご)だ。


「天竹先生、お久しぶりです」


 天竹は今、静かな雰囲気の喫茶店で、少し歳下の笹谷(ささたに)青年と向かい合っている。この青年は、天竹が本格的な活動を始める前から応援してくれていた。


「うん。お元気でした?」

「ええ」

「これ、お土産。中国行ってきたんです」

「わあ、何ですか?ありがとうございます」

皮影戯(ピーインシー)という中国の伝統影絵に使う人形なんですよ」

「へぇぇ」


 影絵人形は、鮮やかな赤い絹張りの箱に入っていた。男女二体のようである。男性は背中に四角い籠のような物を背負っている。


白蛇伝(はくじゃでん)てご存知ですか?」

「あ、はい。映画で何種類か観たことあります」


 その物語を題材にした人形ということだろう。


「今回、新しい人形のアイデアを探しに中国まで行ってきたんですけど」

「ずいぶん遠くまで」

「ええ。今年の竹里館(ちくりかん)同人展(どうじんてん)の為にね。竹里館はもともと、中国の古典から名前をつけたわけだから」

「そうでしたね」


 笹谷青年は頷いた。


「それで、何かよいアイデアは浮かびましたか?」

「まだアイデアとまでは行きませんが、不思議な体験をしたんですよ」

「ほう?」


 笹谷青年はひと膝乗り出した。天竹はふわりと笑って、中国の竹林で経験したことを話し始めたのだった。



 ◆



 天竹は、中国のとある地方で竹林を歩いていた。確かに、さまざまな国の観光客で賑わう渓流沿いを散歩していたのだ。


(おや、これは迷子になったかな?)


 いつの間にか人影はなく、人声もせず、道さえも消えていた。


(困ったな)


 闇雲に歩いて遭難してもいけないが、ただ立ち尽くしていたら余計に困る。空を見上げると風はなく、灰色の雲が立ち込めている。太陽から方向を割り出すことも出来ない。


 先ほどまでは、竹に混ざって他の木も生えていた。枝ぶりや幹の傾きなどから、方角を知ることも可能だったのだ。しかし今は、竹しか見えない。それもまた、不自然なのである。


(参ったなあ)


 天竹は少し眉を下げながら、来た方向を振り返る。見渡す限り竹藪が続いていた。渓流はそのまま残っている。


(よかった。沢路(さわみち)を戻ろう)


 ほっとして、天竹は歩き始めた。



 竹林の渓流は、でこぼこと登り下りがあった。歩いて来た時もそうだったので、特に疑問も持たず進んでゆく。沢音が耳に爽やかだ。どこかで鳥が啼いている。岩肌を沢蟹が楽しげに這っていた。小魚の影も見え隠れしている。


 ふと、古雅(こが)な音楽が聞こえて来た。天竹は音楽のことをよく知らない。なんとなく古い中国の音楽みたいだな、と感じただけである。


 歩いて行くうちに、音が近くなってきた。


(コンサートかな?人のいるところまで戻れたみたいだな)


 迷子から抜け出したと思うと、天竹の足取りは軽くなる。口元も心なしか力が抜けていた。



 大岩が視界を遮った。


(こんなところ、通ったかな?)


 天竹は首を捻った。


(まあでも、人はいそうだから。道を尋けるだろう)


 生来の呑気さも手伝って、天竹はあまり気にせず大岩をまわってゆく。中国語は付け焼き刃だが、道を尋く程度ならなんとかなりそうだった。


 岩陰から出ると、右手に竹屋根の四方亭(しほうてい)が見えて来た。四方とは四角という意味である。三角なら三角亭、八角なら八角亭である。壁のない竹床の真ん中で、青い衣を来た若い美女が七弦の琴を弾いている。琴柱(ことじ)のない小ぶりの琴であった。


古琴(グーチン)という楽器かな?)


 人形のアイデアを求めて眺めた写真集で、幾度か見かけたことがある楽器だった。


 美女の服装も古風である。漢服という種類の衣だと思われた。袂の長い、ゆったりとした上着のようなものを羽織っている。内衣も外衣も青かった。よく観ると、流水紋と蓮花の刺繍が施されている。


 頭は、天女の絵にありそうな高く結った髪型だ。挿した簪は透明で青く、鱗を模した飾り彫りで覆われている。



「あら、珍しい。お客人?」


 琴の調べに乗り、沢音にも似て軽やかな涼しい声音が、天竹の耳に届く。


「あの、道に迷ってしまって」

「まあ、それはお気の毒に。でも、怪我ないようで、ようございましたね」


 美女は清涼な微笑みを浮かべて言った。琴の音は途切れずに続いている。


「街の方まで戻りたいのですが」


 美女の穏やかな様子に安心して、天竹は道を尋ねた。


「ああ、それなら」


 美女はすっと息を吸うと、問いには答えず謡い始めた。


(え?)


 天竹は初めて、腹の中がむずむずするような落ち着かなさを覚えた。青い衣を着た美女は、懐かしむような眼差しを天竹に向けた。天竹も何故か、胸の奥が締め付けられるような気がした。


 奇妙な雰囲気とは裏腹に、歌は極めてありふれた曲であった。


(白蛇伝か)


 中国の有名な恋物語である。古い仏教説話から現代の恋愛映画まで、さまざまなバージョンがある。


(これは運がよかったかも知れない。作品になりそうな気がする)


 天竹は、四角い竹床の外側に佇んで、美女の紡ぎ出す物語に耳を傾けることにした。




「二人は心から愛し合っているのです。どうか見逃してくださいませ」


 青蛇が必死に高僧に訴える。高僧は非情にも法術を放った。


「わたくしどもは、人間に害をなしたことはございませんのに」


 白蛇が悔しそうに叫ぶ。白蛇は青蛇を傷つけた高僧に怒りをぶつけた。白蛇の掌から白い光の球が飛び出した。高僧は錫杖で球を弾く。錫杖が光り、白蛇を襲う。薬師が絶望に目を見開いて大地を蹴る。法術と白蛇の間に飛び込もうとしているのだ。


(いよいよエピローグだな)


 高僧が白蛇を封印しようとするくだりが終わると、曲調が変わった。激しく弦を掻き鳴らしていた法術合戦は、白蛇、薬師、青蛇が一様に命を落として幕を閉じていた。


(西王母でも登場するのかな?)


 青蛇は二人を赦して貰おうとしたが叶わなかった。薬師が愛する白蛇を庇うが、彼は法力で吹き飛ばされて死んでしまった。白蛇も息を引き取った。そこで変化した旋律は、まるで竹藪を清らかな光で満たすかのようなものだったのである。伝統曲では次に登場する人物が解る、決まったフレーズもあるのだが、天竹にはそこまでの知識はない。



 天竹の予想どおり、物語には西王母が登場した。


(あれ?おかしいな?眼に見える)


 美女の前に、影絵芝居のスクリーンが忽然と現れたのだ。眼に見えるかのような演奏、ではない。操る人もいない影絵人形たちが、物語の続きを演じてゆく。それはエピローグではなかった。


(ここからが本当の物語みたいだ)


 天竹は興味をそそられて、目の前の出来事を受け入れた。後で考えてみると、恐怖を感じるほうが自然なのだったが。



 涼やかな声はうたう。


「天命とはいえ、気の毒なことでした。もう一度、人間として生きられるようにしてあげましょう」

「西王母さま、来世はどうか、妖怪にしてください」

「なぜですか?」

「愛する小白(しゃおばい)と同じ白い蛇の妖怪になりたいのです」


 西王母は、薬師が抱える狂おしいまでの愛を憐れまれた。そして、次の世では白蛇の妖怪になれるように取り計らってくださった。


「けれども、貴方が愛するあの白蛇と次の世で出会えるかどうかは、天命によりますよ?」


 出会えるかどうかを、薬師が知ることは許されていないのだ。


「構いません。探しますから。その機会を頂けるだけで充分でございます。感謝致します、西王母さま」

「今世のことは忘れてしまうのですよ?」

「分かっております。たとえ忘れてしまっても、きっとまた小白を愛するでしょう。何度だって、小白だけを愛すると約束したのですから」


 西王母は慈悲深く頷くと、忠告をお与えになった。


「妖は魔に堕ちるかも知れませんよ?今世の白蛇や青蛇は奇跡のような例なのです。もし魔となれば、純粋な愛は消えてしまい、愛した筈の白蛇を虐殺してしまうかも知れないのですよ?」

「それは困ります」


 薬師は慌てた。


「それでも、小白と同じ蛇妖になりたいのです。どうにかならないのでしょうか?魔に堕ちない方法はございませんか?」

「真面目に修行をすれば妖から仙になれることでしょう。今世のあの蛇たちも、もう少しで仙になれるところでした」

「私が仙になっても小白に会えるでしょうか」

「それは天命次第です」


 そうして送り出された次の世で、薬師は白い妖蛇となった。西王母とのやり取りは忘れてしまっていたのだが、運良く先輩の蛇仙に出会った。彼は先輩を師と仰ぎ、千年修行をすることになった。



 ところが、もう少しで白蛇仙になれる時、悲運に見舞われた。魔に堕ちた悪僧に妖胆を狙われて、大怪我を負ってしまったのだ。妖胆とは、長く生きた妖怪の力が体の中で固まったものである。これを呑み込むと、強大な力を得られるとされていた。妖胆を抜き取られた妖怪は、力を失うことになる。取り出し方が乱暴な場合には、息の根が止まってしまう。


「きさま、千年妖胆を持っているな?愚僧に喜捨せよ」

「あなたも修行を重ねれば、ご自分のうちに聖なる力が溜まるのではございませんか?」


 悪僧は聞く耳を持たず、黒く澱んだ法術を放った。千年白蛇妖の術は、その時既に浄らかに高められた仙術となっていた。悪僧の堕落した法力も強大ではあったが、徐々に浄化されてゆく。


 緊張が高まる中、最後の足掻きで悪僧は強力な邪術を放つ。悪僧はそのまま浄化されて消えたが、白蛇妖も深手を負った。倒れた弾みで激流に落ちてしまった。



 一方小白は、高僧に消滅させられたかに見えた。しかし愛が本物だったので、西王母が憐れんで生まれ変わりを認められた。本来なら、浄化された妖怪は生まれ変われない決まりなのだが。


「何に生まれ変わるかは選べませんが、どうです?生まれ変わってみますか?」

「はい。ぜひ。何であっても構いません。もう一度、愛する夫に会えるのですから」

「会えるかどうかは天命次第です」

「それでも、チャンスを頂きたいです」

「記憶はなくなりますよ?」

「もう一度夫婦となる可能性はありますでしょう?」


 小白は僅かな希望に縋るように、西王母を見上げた。


「天命によります」

「わかりました」


 小白は諦めなかった。再び出会える運命を信じているようだ。


「生まれ変わるのですね?」

「はい、お願い致します」


 結果、小白は灰色猫妖になった。こちらも千年修行して、猫仙となる資格を得た。元小白の灰色妖猫は、人の姿を得て薬仙に入門し、更なる修行をした。記憶はなかったのだが、薬を扱うということに強く惹かれたのである。


「弟子よ」

「はい」

「修行の仕上げに、遊医として徳を積んで来なさい」

「はい」


 灰色妖猫は、素直に俗世へと向かうのだった。遊医とは、旅する医者のことである。そして運命は動き出す。灰色猫は、薬仙の谷を出た先にある竹林の渓流で、うっかり足を滑らせた。


「きゃああっ」

「なん、だ?大丈夫、です、か?」


 瀕死の白蛇が、流れの中に頭を出した岩に引っかかっていた。元薬師の白蛇は朦朧としながらも、危機にある生き物に気がついた。よろよろと尻尾を伸ばして、白蛇は灰色妖猫を受け止める。


「えええっ?貴方こそ、大丈夫ですかっ?」


 こうして今世の小白は、瀕死の白蛇を拾ったのであった。互いに前世を知らぬまま、前世と役割を交代したのである。最も、元小白は人間ではなく、今回も妖怪ではあったが。



 さてその頃高僧は、愛を知る修行をさせられていた。みっつの無垢な命を犠牲にしてしまったことが罪業とみなされたのだ。修行に明け暮れ、老いてこの世を去った後、幾度も浮世に戻された。悪人になったり、堅物になったり、と、転生先は一定しない。


 白蛇妖と灰色猫が出会った時代、高僧は五回目の人生を経験中である。彼は蝋燭職人になっていた。貧しくとも実直な若者である。目を悪くして職人を引退した父母を、一人で支える苦労人でもあった。


「父さん、母さん、それじゃちょっと行ってくるよ」

「気をつけるんだよ、阿海(アハイ)

「寄り道せずにな」

「分かってるよ」


 そんなふうに暮らしていた。



 川向こうの蝋燭屋に品物を届けた帰り道のことである。石造りの橋の上で突風が吹いた。


「あっ」


 たまたま緩んでいた少女の髪飾りが、風に煽られて落ちてしまった。


「おや?」


 それが偶然、阿海の袖口に引っかかって留まった。透き通った青い簪だ。鱗のような飾り彫りが一面を覆っている。


「珍しい簪ですね。とても美しい彫りです。蝋燭にもなにか彫ってみようかな?」

「えっ?」


 拾ってくれたはいいが、その若者はじっくりと簪を観察している。


「あっ、すみません。見事な簪でしたので。貴女のものですか?」

「ええ、はい」


 阿海は慌てて簪を返した。受け取る少女の指先はほんのり青みがかっている。阿海は思わずその指先に見惚れた。


「その、蝋燭に模様を彫るのですか?」


 少女は好奇心から聞いてみた。絵が描かれた蝋燭は、この町でも見かけることがあった。しかし、飾り彫りを施した蝋燭は、この国にはまだなかったのである。


「はい、彫ってみようかと思います」

「どんな蝋燭になるでしょうか」

「まだわかりません。そうだ、出来上がったら、一本差し上げますよ」


 少女は怪訝な顔をした。


「川向こうの蝋燭店に預けておきます。貴女の簪から思いついたのですから、お礼です。ええと、そうですね、飾り彫りを施した蝋燭が売り出されたら、その簪を店主にお見せください。蝋燭職人の阿海からの預かり物を受け取りに来た、と仰ってください。珍しい簪ですから、人違いはないでしょう」

「そんな、お礼だなんて。何もしてませんよ」


 少女は困ったように微笑んで、小走りに立ち去った。阿海は少し残念そうにその背中を見送ると、ゆっくりと家路についた。



 青蛇の鱗鱗(リンリン)は高僧の手で命を散らしていた。だが、最期の瞬間、彼女は全ての執着を手放したのだ。そのため、妖から仙へと存在の位階をあげる資格を得たのである。資格は得たが、魂は傷つき、肉体は法術に焼かれて崩れ去っていた。それから千年の年月をかけ、ようやく回復できたところで、阿海と出会ったのである。


「何でしょう?鼓動が速いわ?」


 鱗鱗には恋の経験が無かった。そわそわと落ち着かず、ふとした瞬間に、橋の上で出会った青年を思い出す。火傷の跡がある職人の指。簪へと落とす真剣な眼差し。お礼を申し出た時の、控えめながらもやや強引な様子。


「真面目そうなひとだったわ。きっと素敵な作品を作るのでしょうね」


 その日から、鱗鱗は指定された蝋燭屋の前を日に数回通るようになった。



 しばらくして、鱗で覆われたような蝋燭が店頭に並んだ。鱗鱗はいそいそと贈り物を受け取った。紙に包まれた蝋燭を大切に抱きしめて、鱗鱗は町外れの竹林へと帰った。


 竹林に建てた質素な小屋で、鱗鱗は飽きもせずに蝋燭を眺める。火をつけたら溶けてしまうので、ただテーブルに飾って鑑賞していた。蝋燭を観るだけで、鱗鱗は心が温かくなるように感じていた。しかし、一つだけ気になることができた。


「なんだか最近、仙術が下手になったみたい」


 俗世の情を手放して初めて、仙という存在になれるのだ。千年前の鱗鱗には、情の中でも男女の愛情だけ経験がなかった。元から存在していなかったので、全てを手放した時にも含まれていない感情だったのである。


 生まれないまま手放されずに残っていた男女の愛という感情が、予期せぬ形で鱗鱗の心に宿ってしまった。鱗鱗はそのことに気づいておらず、なぜ仙術の力が弱まったのか解らなかった。妖怪の力が戻った訳でもないので、尚更原因に思い至らない。


「気晴らしに町まで出かけてみようかしら」


 気がつくと鱗鱗は、蝋燭店の前まで来ていた。



「おや、お嬢さん。蝋燭をお受け取りいただいてありがとうございました」


 店から出てきた阿海は、輝く笑顔で鱗鱗に話しかけた。鱗鱗の胸が高鳴り、二人は自然に並んで歩き出した。


「鱗の他に、飾り彫りは作りましたか?」

「ええ、その、あの日、あなたの袖口に刺繍されていた、蓮の花を彫ってみました」

「あら、蓮の花ですか。美しいことでしょうね」


 鱗鱗は恥ずかしそうに頬を染めた。気恥ずかしくはあるのだが、今回も自分がきっかけであることを誇らしく思った。


「今度蝋燭店に預けておきますよ」

「そんな。買います」

「買って下さるのは嬉しいですけど、差し上げたいのも確かなんです」

「まあ」

「今回もあなたのお陰で思いついた飾り彫りですから」

「嫌だわ。わたし、何もしてませんのに」


 二人は顔を見合わせて、わけもなく微笑んだ。



 しばらくすると、ふたりは寄り添って歩くまでになった。ここまで来れば鱗鱗も流石に、情を動かされたのだと気がついていた。しかし、気づいた時には手遅れだった。


「まずいわ。このままでは登仙(とうせん)出来ない」


 仙界は俗世より上だと考えられている。登仙とは、仙界に住む存在へと登る、という意味だ。世俗の情を残すうちは、仙界へ渡ることが出来ない。このままでは、修行が全て無駄になってしまう。(あね)と慕う小白と共に修行した千年、彼女を失ってから回復に専念した千年。合わせて二千年もの歳月を、青蛇妖に過ぎなかった鱗鱗は修行してきたのだ。ただまっすぐに善を為して来た。



 鱗鱗は心を落ち着けようと努力した。それなのに、いつの間にか蝋燭店の近くまで来ているのだ。


「どうしましょう」


 愛情は悪いことではない。それは、小白と薬師の夫婦愛を見て知っていた。小白は薬師と出会った時に、


「今生は修仙の道を諦めるわ」


と言った。出会った瞬間に決めたのである。しかし鱗鱗は違った。そこまでの決断が出来なかったのだ。二千年の間には、痴情のもつれや失恋の痛み、死別の苦しみなどを眺めて来た。小白夫婦との関わりとは違うが、既に世俗の情を手放した者として、彼等に寄り添う時もあった。


「魔に落ちた者もいたもの」


 愛していると言いながら、相手を傷つけることしか出来ない身勝手な者も多く見た。


「阿海も変わってしまうかもしれない」


 その不安が、既に魔の胎動だということも知っていた。反面、魔の成長を許さない愛の力も確信していた。


「だけど、わたしは元々妖怪だもの」


 口に出せない恐怖が、たびたび鱗鱗を襲うようになった。


「妖は人間よりも魔に落ちやすい。何よりも阿海は人間だわ。白姐(バイジェ)たち夫婦にとっては何の障害にもならなかったけど。愛している筈の相手が妖だと知った途端に、高僧や道士を呼んでくる人間は多いわ」


 それには妖怪側の落ち度もある。善をなす妖怪は極端に少ないのだ。信じてくれと言うほうが難しいのは当然だった。


「阿海。あの優しい眼差しが恐怖や憎しみに染まるのを観たくない」


 そんなある日、ふたりは仲良く灯篭祭を見学していた。悩みながらも、鱗鱗はまだどうするか決めかねていた。


「この頃なんだか元気がないみたいだけど、具合が悪いの?」


 阿海の気遣いは鱗鱗にとって、嬉しさと同時に不安ももたらしていた。この愛が壊れてしまったら、鱗鱗は魔に堕ちるかもしれないのだ。


「ううん、大丈夫。心配してくれてありがとう」

「ほんとに?疲れてるだけでも、甘く見ないほうがいいよ?疲れが溜まったせいで身体を壊す人もいるんだからね?」


 魚や動物、鳥や花を模った灯篭に照らし出される幻想的な祭の夜だ。この灯篭はお金では買えない。謎々を正しく解いた者だけが勝ち取ることが出来るのだ。


(人生の謎を解かないと、愛は手に入らないのかしら?白姐はどうやって愛の謎を解いたのかしら)


 家族連れも恋人たちも、みな幸せそうに見学している。食べ物屋台に立ち寄る者もいる。


「何か食べる?」

「いいえ、あなたは?」

「うーん、ぼくもいいかな?」

「そろそろ帰りましょうか?」

「そうだね。疲れたよね?」

「ふふ、そうね」


 灯篭は眺めるだけにして、食べ物屋台にも寄らず、ふたりは橋のたもとまでやって来た。橋を渡れば職人街である。祭の会場はこちら側だけだ。橋の向こうは暗闇の中に沈んでいた。


「またね」

「送っていこうか?」

「ううん、いいわよ」


 鱗鱗は阿海の心遣いで幸せな気持ちになった。愛のこもった微笑みを目にして、阿海も少しだけ安心したようである。


「そう?月は明るいけど、夜道に気をつけるんだよ?」

「やあね、子供じゃないのよ」

「それはそうだけど」

「じゃあね!」

「うん、またね」



 ふたりが互いに背を向けようとした時、橋を渡って行く人と軽くぶつかった。


「あ、すみません」


 職人風の地味なおじさんだ。手には黒い切り絵がついた灯篭を提げている。


「お若い方々、これも何かのご縁です。これ、差し上げますよ」

「え、そんな、ご遠慮致します」

「はは、そう言わずに」


 おじさんは巧みに灯篭を押し付けると、暗闇に溶け込んでしまった。


「魔かしら?」


 鱗鱗は思わず呟いた。


「うん、なんだか変だよね」


 阿海は無邪気な様子で返答した。彼は自分の恋人が修仙者だということを知らない。魔を見抜く力があるとは思わなかった。たわいの無い世間話として受け答えをしただけである。



 風が吹いて来た。鱗鱗の手に押し付けられた灯篭が、カラカラと回った。音に惹かれてふたりは目線を落とす。


「え?」


 現在無人の橋で、足元に影絵芝居が映し出されていた。それは、灯篭に飾られている黒い切り絵とは比べ物にならないほどに複雑でいきいきとした動きを見せている。


「これは、白蛇伝かな?」


 千年前の悲劇は、今や有名な演目になっていた。阿海は前世を覚えていないので、何の含みもなく憶測を述べた。


「でも、灯篭の飾りだけじゃ、この影絵は出来ないよねぇ?」


 阿海は、気味悪そうに肩を振るわせた。


「白蛇伝」


 鱗鱗の目付きが険しくなった。眉を寄せて、声も硬くなっていた。


「どうしたの?この話、嫌いだっけ?」

「この僧侶、その後どうなったのかしら」


 強張った顔のまま、鱗鱗は低い声で呟いた。千年前に起きた物語の終わりで、青蛇は魂を傷つけられ意識を失ったのだ。自我を取り戻した時には、既に何百年も経っていた。怨みを手放した鱗鱗にとって、高僧の行末は追及しなくてもよいことだった。


 しかし今、自らが俗世の愛と修仙、そして人と妖との複雑な感情に揺れ動いている。愛を選んだ人と妖、それを引き裂いた高僧のことが、俄に恨めしくなったのだ。この高僧が悟りを開き、仏の世界に旅立ったのだとしたら、なんともやるせない気分にさせられる。



 その時、足元に映る影絵の僧侶に、はっきりと人の顔が現れた。


「ああっ」


 その顔は、阿海だった。


「そうよ。なんで忘れていたのかしら?いいえ、当たり前だわ。あの時には全部手放したのだもの」

「何?どうしたの?何を言ってるの?鱗鱗」


 鱗鱗の異様な雰囲気に、阿海は思わず後ずさった。その行動は、鱗鱗の軋んだ心に大きな傷を残した。


「あなたよ」

「え、何が?」

「良く観なさい。これは貴方よ。貴方が姉さんと兄さんの愛を壊したのよ」

「姉さん?兄さん?一体どうしちゃったんだ」


 灯篭に照らされた阿海の瞳には、驚きと恐怖、そして鱗鱗への心配が現れていた。


「阿海、まだわたしを心配してくれるのね?」


 鱗鱗は探るように阿海の双眼を覗き込む。


「まだって。当たり前じゃないか。大好きな君の様子がおかしいんだもの」


 鱗鱗の瞳孔は、蛇の物に戻っていた。


「え?え?どうして?何が起きているんだ?やっぱり、さっきの男は魔だったのか?」


 阿海は混乱して捲し立てた。慌てる阿海の姿を前にして、鱗鱗は却って冷静になった。


「そうね。本性を映し出す魔界の灯篭だったみたいね」

「本性?」

「貴方は私達三人の命を奪ったのよ。私達は何も悪いことをしていなかったのに。ふたりは愛し合っていたのに。見逃してくださいとお願いしたのに。あなたは冷酷に、わたしたちを殺したわ」


 阿海は、それが五世前の人生だということを知らない。彼の贖罪が始まった事件だということも。


 鱗鱗にとって高僧は、姉と慕う白蛇と兄と慕うその情侶を問答無用で死なせた仇である。男女の愛情を知って不安定だった感情は、大きく揺さぶられてしまった。鱗鱗は激情に駆られて蛇の姿になりかけた。長く細い舌が、灯篭に照らされて赤々と蠢く。


 阿海はひどく狼狽した。だが、愛は消えなかった。彼は、そうした自分の感情にもその場の光景にも向き合うことが出来ず、ただ驚いていた。


 足元では執拗に、白蛇と薬師と青蛇が高僧の法術に倒れる情景が繰り返されている。影絵の青蛇が憎しみに顔を歪めて叫ぶ。


「僧侶よ、お前をけして赦しはしない!」


 虫の息の白蛇が呪いの言葉を吐く。


「僧侶よ、お前に平穏な死は許されないぞ」


 薬師は白蛇を抱えて泣き叫ぶ。


「小白、小白!しゃおばーい!!!」



「いえ、違うわ」


 鱗鱗はその影絵を凝視しながら囁いた。阿海がそっと様子を伺っている。


「白姐は、そんなこと、言わなかった」


 死に際に白蛇が言い残したのは、呪いでは無い。


「あなただけでも怨みを捨てて登仙するのよ」


 と言ったのだ。


「私たち夫婦は、来世で幸せになるんだから安心してね」


 そして薬師も血と涙の下で告げたのだ。


生生世世(しょうしょうせいせい)、未来永劫、何度生まれ変わっても、小白と私は夫婦になるんだ。鱗鱗、安心して登仙してくれ」


 鱗鱗は、不安な気持ちにつけ込まれたのだと悟った。魔界の者は、魔に誘うのが得意である。そして、魔の天敵である神仙や仏の誕生を阻止したいと熱望している。



「阿海、これは貴方の前世なのね」

「え、知らないよ」


 落ち着いて再確認する鱗鱗に、阿海は猜疑の眼差しを投げた。しかし戸惑いつつも、逃げる気配は微塵もない声音だった。


「もしそうなら、謝って済むことじゃないけど」


 白蛇伝の悲劇から千年後の今、高僧は物語の悪役である。その悪役が自分の前世で、愛する人が犠牲者だったとなれば、誰だってどうして良いかわからなくなるだろう。身に覚えがなくとも、全く関係ないと主張すれば罪悪感が生まれる。


 自分の恋人が青蛇その人でなければ、笑い飛ばしたことであろう。しかし、青蛇は生まれ変わりではなく、魂を回復して肉体を再生した当事者なのだ。愛しい人が妖怪で、しかも善良で、登仙間際で、自分の前世はその仇だ、という詰め込みすぎの属性を突然知ったのだ。阿海はついに精神の混沌を超え、思考停止した。


「今日はもう遅いわ。帰りましょう」


 落ち着きを取り戻した鱗鱗は、静かに告げると、祭のあるほうの岸へと戻った。阿海は呆然と見送ることしか出来なかった。



 竹林の小屋に帰り着くと、鱗鱗は急いで魔界の灯篭を浄化した。灯篭に残された魔の気配を追って、魔物も速やかに排除した。幸いなことに、灯篭の魔物は小物だった。精神の均衡を取り戻した鱗鱗の敵ではない。


 阿海のほうは帰宅後しばらくして、ハッと我にかえった。それから一晩悩みぬいた。転々と寝返りを打ちながら、考え続けた。夜がすっかり明けた頃、阿海は晴れやかな表情で起き上がった。


 彼の結論はこうだった。前世のことは仕方がない。説話や伝説でも、贖罪の為に生まれ変わる人物が登場するではないか。今生で過ちを繰り返さなければ良いのだ。


 阿海は、自分の知る鱗鱗は善良なこと、妖であっても愛する女性であるということに思い至り、翌朝探しに出かけることにした。


「きっと鱗鱗は不安に違いない。鱗鱗が前世のことを、今どう感じているかは分からない。だけど、ぼくはあの高僧その人ではないんだし、それは鱗鱗だって分かってるはずだ。ぼくたちも千年前の白蛇と薬師みたいに愛し合っていることを伝えなくちゃ」



 阿海が朝食もそこそこに家を飛び出した頃、鱗鱗は竹林を散歩していた。心の波は一旦おさまったものの、現在抱える感情の矛盾は解決していなかったのである。


「贖罪も済んでいないのに、忘れてしまっているなんて」


 ぶつぶつと恨み節を溢しながら、生い茂る竹の間を彷徨った。


「今生の阿海は愛情深いひとだわ」


 眉根を寄せて考え込む鱗鱗に、ポツポツと雨滴が当たる。


「わたしたちも白姐と姐夫(にい)さんのようになれるかしら」


 覚えず知らず、鱗鱗は竹林を割って奔る渓流の辺りに来ていた。足元は雨にぬかるんでいる。


「魔に漬け込まれるなんて、だらしない。もっと真面目に修行しなくちゃ」


 川面に落ちる雨を見つめながら、鱗鱗は自問自答を繰り返す。


「生まれ変わっても魂は同じよ。阿海には自分の幸せを諦めて貰わなくちゃ、道理に合わないわ」


 波立つ川に怒りをぶつけて、すぐに首を振る。


「何を言ってるの、わたし。偉そうに。わたしは裁く立場じゃないわ」


 それから顔についた雨水を掌で拭う。


「修行を続ければ仙に近づく。仙に近づけば世俗の愛は消えてゆく。違う形にはなるけれど、それはもう夫婦になれる愛ではないわ」


 修仙者である鱗鱗は、どちらかの道を選ばなければならない。


「どうしたらいいかしら。私はどちらを望んでいるのだろう」



 強くなる雨に打たれながら、鱗鱗は岸辺に立っていた。


「あなた、傘をお貸ししますよ?」


 背後から知らない声がした。振り向けば、灰色の髪を上品に撫でつけた若い娘が鱗鱗を見つめていた。鱗鱗は、その娘が修行中の妖猫であることをすぐに観てとった。灰色猫は、手にした唐傘を鱗鱗に差し掛けて、水汲みに来たらしい木桶を下ろすところであった。


「姉さん?」


 その人には、小白の面影がある。


「え?人違いですよ?」


 前世を知らないその人は否定した。


「すみません、良く似ていたものですから」

「あら、そう?」


 灰色猫はにこりと笑って、木桶二つに水を汲む。そこへ青年が走ってきた。


「え、あら」


 鱗鱗は目を見張った。それからクスリと笑った。


「え?知り合い?」

「いえ、姐夫さんに似てらしたから」


 それを聞いた灰色猫も笑い出した。


「ねえ!わたしたち、この人のお姉さんとお姐夫さんに似てるんですって!」

「へえ?」

「やっぱり、惹かれ合うタイプってあるのかしらねぇ!」


 灰色猫は傘を鱗鱗に持たせると、近づく若者に大きな声で伝える。岸辺に辿り着いた若者は、水汲み桶を引き受けて、来た道を引き返した。


「力仕事は俺がやるから。ちょっと目を離すと、すぐなんか頑張ってる。雨降ってるんだし、無理すんなよ」

「あ、待ってよ!まだ傷が治ってないくせに!無理はどっちよ?」


 仲睦まじく立ち去る二人に、竹林の雨が降り注ぐ。雨にけぶる風景が二人の姿を滲ませた。


「なんてこと。姐夫(にい)さんたら、今世は白蛇なの?お揃いにしたかったのね?天意もそれを許すなんて、どれだけ揺るぎない愛なのかしら。でも白姐は灰色猫だなんて。白蛇でも人間でもないじゃないの。それでもやっぱり出会うし、やっぱり姐さんは修仙を放り出すし。そういえば、今世は姐さんが薬草の匂いをさせてるのね。やだ、すっかり取り替えっこしちゃったの?」


 鱗鱗は感動よりも笑いが込み上げてきた。


「あはは、愛を選ぶ者たちって、なんだか可愛いのね」


 先程までの悩みがすっかりどこかへ行ってしまった。鱗鱗の表情は雨天にも関わらず、晴れやかだった。



 川辺を離れて歩き出した鱗鱗を呼ぶ人がいた。


「鱗鱗!やっとみつけた!」


 阿海は町を走り、川を覗き、郊外の竹林にまで足を運んだ。そして、ようやく見つけ出した愛しい人を、しっかりと抱きしめた。それだけで阿海の気持ちは充分に伝わった。


「阿海、ありがとう。心から愛してくれてありがとう。前世と向き合ってくれてありがとう」


 腕から逃れて礼を述べる鱗鱗を、阿海は不審そうに眺めた。


「鱗鱗?」


 鱗鱗はにこりと笑って、阿海に唐傘を渡した。


「前世の縁よ。貴方に託すわ」

「託す?」


 阿海は不安そうに言葉を返す。


「ごめんね。私は愛を見守る者になることにしたの」


 鱗鱗は静かに告げた。


「は?」


 阿海は呑み込めずに目を剥いた。


「私は前世の白姐と、登仙するって約束したのよ。貴方と出会って幸せだったけど、さっき今生の姉さん夫婦に出会って解ったの。私の道はふたりとは違う」

「ぼくとも?」


 阿海は絞り出すように言った。


「ごめんなさい」

「どうしても?」


 鱗鱗は痛ましそうに阿海を見つめた。


「分かったよ」


 その眼が既に俗世を超えたものに変わったことに、阿海は気づいてしまった。


「貴方が愛してくれたからこそ、私は怨みを完全に手放せたし、道も開けた」

「なんだよ、ぼく、踏み台かよ」

「そうじゃないんだけど」

「分かってるよ、でも、不満くらい言ったっていいだろ」


 阿海の眼は赤くなっていた。だが、涙は見せなかった。無理に笑う阿海に、鱗鱗は穏やかな声で答えた。


「そうね」


 ただそれだけ言うと、彼女は光の帯となって雨の中に消えてしまった。


(登仙するところを観られるなんて、めったにあることじゃないよな。仙界に行ってしまったのが愛する人じゃなかったら、手放しで喜んで、父さん母さんにも自慢するんだけどなあ)


 雨は涙のかわりに、阿海の頬をとめどなく流れ落ちて行った。



 愛を失う痛みを知った元高僧の魂は、今生の愛を手放せなかった。阿海は、どうしても鱗鱗を忘れることが出来ないままだった。ある雪の日、想い出の橋で、阿海はすっかり骨ばった腕を欄干に載せていた。


「鱗、鱗?」


 老いてこの世を去る時に、霞んだ眼が捉えたのは、散仙として浮世を渡る鱗鱗だった。散仙とは、神仙の世界での役職に就かず、俗世で人間たちを助ける仙人のことである。


「そんなにも愛してくれてありがとうね」

「高僧の罪は洗われたかな」

「きっと罪は雪がれたわよ」

「君と仙侶になるのも悪くなさそうだな?人の夫婦とは違うだろうけど、共に同じ道を歩むのは幸せなことだと思う」


 長い人生の間ずっと大切にしてきた愛が、鱗鱗にまた会えて報われた。報われはしたけれど、それで満足は出来なかったようだ。


「あら、今から修行するの?」

「まだ手放せる物がたくさん残ってるからね。ぼくも修行を始めてみるよ。あと何回生まれ変われば君の隣を歩けるのかは分かんないけどさ」


 しわがれた声だというのに、その響きは少年のようであった。この橋で出会った頃のように、二人は屈託ない笑顔を交わした。雪が視界を真っ白に埋めてゆく。体温を失った老人の肩にも背中にも、白い雪の衣が重なっていった。



 西王母は元高僧の魂に、次の世では僧侶となり解脱を目指す人生を選びますか、と聞いた。阿海としての人生を終えた元高僧は、少し考えてから答えた。


「ぼくが覚えていなくても、夫婦として愛されなくても、何度生まれ変わろうと、鱗鱗と愛し合った僅かな時間を大切にしたい。神仙や仏になると情愛を忘れてしまうから、それはつらいけど、仙侶を目指すのも悪くないなって思うんです」

「どうやら、まだまだ修行が必要なようですね。いいでしょう。存分に悩みなさい。たくさんの喜びと苦しみを体験していらっしゃい。何度でも生まれ変わって、愛と贖罪について学んでいらっしゃい」


 西王母は、阿海だった魂を次の世へと送り出した。


 記憶のない元高僧は、次の世でも、その次の世でも、鱗鱗と人生の何処かですれ違った。今生でも、また出会った。彼は気になって追いかけたが、鱗鱗を見失ってしまった。


 一方の白蛇と薬師だったふたりは、今でも転生を繰り返し、人間としてめぐり合っては夫婦になっていた。


「姐さんたち、そろそろ登仙してもいいんじゃないの?阿海もまだ仙侶になってくれないなんて、ほんとになんてこと?三人とも、どうかしてるわね」




 どこか愛おしそうなトーンで、青衣の美女は歌い納めた。操る人のいない影絵芝居も、空気に溶けるように消えてしまった。


「さあ、もう貴方の道に戻れますよ」


 最後の音が竹林に吸い込まれ、瀬音だけが残った。


「わたしたちの物語は、縁ある貴方に託します」

「あなたがたの物語?」

「お気づきなのでしょう?」


 沢音と追いかけ合うように、爽やかな声が響く。


「今生の阿海から姿を隠して逃げた先に、お客人、貴方がおいでになったんです」


 天竹は芸術家の直感で、竹林の霊域に入ってしまっていたらしい。


 青蛇と高僧だったふたりは、今生でも既に僅かな関わりが出来ている。薬師の生まれ変わりは今生、まだ白蛇だった魂と出会っていないそうだ。


「今回も、いつか白蛇と薬師は会えるかも知れないわね」

「おふたりが会えるのなら、我々物語の聞き手にとっても嬉しいでしょうけど、前世の記憶は消えているんですよね?白蛇と薬師が、今世が終わった時に解脱しているのもまた、喜ばしいことではありませんか?」


 天竹は繰り返される愛の物語に奇妙な寂寞を観ていた。それは、人間の心では感受しきれないほどに長い時間のなかで、失われることなく紡がれる物語だからなのかもしれない。初めに青衣の美女と目が合った時に感じた、胸が締め付けられるような感覚は、外側から観る事しか出来ない悲しみとも思えた。


「今世も、ふたりが会ってみないと、どうなるのかわからないわね」


 と笑って、鱗鱗は天竹を霊域から送り出した。



 ◆



「それで、この影絵人形ですか」

「うん、そうなんです」

「作品にはなりそうですか?」

「なんとなくね、固まりそうなんですけど、ちょっとね。長すぎる時間の重みを受け止めきれていないんですよ」


 天竹はアイスコーヒーを口にして、喫茶店の天井を見上げた。



 それから数ヶ月後、笹谷青年は竹里館同人展を訪れた。天竹の名とともに飾られていたのは、薄く削いだ竹で造られた回り灯篭だった。寄り添い合う蛇と猫、そして古琴を弾く乙女が、窓のように切り抜かれている。そして回り灯篭の上縁には、竹で造られた若者が笛を吹きながら腰掛けていた。灯篭は、竹で造られた四方亭のミニチュアの上でくるくると回転している。くり抜かれた人物たちは、影となって壁の上を走っている。笛を吹く若者の影も、彼らの影と共に回る。繰り返し、繰り返し、いつまでも。


「笛を吹く阿海?」


 笹谷青年は、疑問符を付けて作品の題名を読んだ。天竹から体験談を聞いていなければ、笹谷青年にも影たちの物語は伝わらなかっただろう。阿海はいつまでも、三人とは同じ世界に入れない。共にあるようでいて、あくまでも距離があるのだ。


 それでも幸せそうに鱗鱗の影に寄り添う阿海を眺めて、笹谷青年は、いつか自分も深く愛する人と出会うのだろうか、と思った。それは恐ろしくもあり、また憧れでもあるように感じた。


 とはいえ、笹谷青年もまた、呑気な性格である。


「出会えても出会えなくても、どちらも幸せなんじゃないかなあ」


 そんなことを口にしながら、笹谷青年は、壁に踊る影に向かって憂いのない笑顔を向けた。



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― 新着の感想 ―
この青衣の女性が、あの蛇さんだとすれば、天竹先生は、あの方の生まれ変わりになるのかなぁと思いながら読み終わりました。 転生して記憶があるよりも、転生して記憶がないのに結ばれるほうがなんとなくロマンチッ…
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