「命を拾われた夜」
パンをちぎる手を止めた瞬間、鼻先を掠めた風が、遠い記憶を連れてきた。
十歳の冬の夜――空気が凍るように冷たく、外の風が窓を軋ませていた。
ノイシュタット家の離れ。その夜も僕は、毛布一枚の寝台で膝を抱えていた。兄弟たちのいる本館には灯りがともり、笑い声すら漏れていたのに、僕の部屋には火すら入っていなかった。
ドアが静かに、軋む音を立てて開いた。
顔を隠した黒い影が、ゆっくりと中へ。
音もなく、床を這うようにして、寝台へと近づいてくる。
息を殺したまま目を閉じ、ただひとつの感覚に集中する。空気の流れ、床板のきしみ、匂い――それだけが、命を守る手がかりだった。
気配が枕元に迫った瞬間、僕は飛び起き、手元に隠していた金属片を突き出した。
刺客の首筋に浅く入ったそれは、錆びついた護身用の短剣。
声も上げず、影は崩れた。僕の足元で、静かに血を流しながら。
そのとき、僕は悟った。
家族にとって僕は“いてもいなくてもいい存在”ではなく、“いない方が都合がいい存在”になったのだと。
その夜、屋敷の外に現れた一団がいた。漆黒の外套に身を包み、死体を確認し、僕の顔を無言で見つめた。
「その目は――使えるかもしれない」
男のひとりが、ただ一言、そう呟いたのを今でも覚えている。
そして僕は連れていかれた。
ノイシュタット家ではなく、《影の手》という名の闇の奥へ。
……そのときから、僕の人生は表と裏に分かれた。
「……選ばれたわけじゃない。ただ、生きる場所がそこしかなかっただけさ」
僕がそう呟くと、隣のクロエがふと息を飲んだ。
彼女は言葉を探すように数秒沈黙し、それから小さく呟いた。
「……そういうの、もう誰かに話していいと思いますよ。たまには」