「影は今日も無能を装う」
昼下がりの陽射しが、重厚な石造りの校舎に柔らかく差し込んでいた。魔法貴族学園の中央庭園には、優雅な笑い声と紅茶の香りが漂っている。
「ノイシュタットの三男坊って、まだ退学になってないのかしら?」
「魔力ゼロでよく恥ずかしくないわよね」
絹のような声色が芝生の上を滑り、無邪気な悪意となって僕の耳に届く。とはいえ、気にした様子を見せるのも面倒なので、僕はベンチの上で欠伸をひとつだけ、ゆっくりと噛み殺した。
「魔力がなくても、睡眠はとれる。僕は健康だ」
自分で言っておいて馬鹿らしくなり、口元にだけ薄い笑みを浮かべる。無能を演じるのは慣れたものだ。何せ、七年近く続けているんだから。
名を、エリオット・ノイシュタットという。魔力階級制度が絶対視されるこの王国において、魔力ゼロの貴族というのはそれだけで“存在してはいけない欠陥品”とされる。
けれど、そんな僕の“真実”を知っている者は、この学園にはいない。
――僕は《影の手》、王国直属の情報機関の統括者だ。
秘密裡に動く諜報員たちに指示を飛ばし、国政を裏から支え、時には王家すら知らぬ情報を握る者。表の世界では“無能な三男坊”でも、裏の世界では“黒衣の指揮官”。
……とはいえ、今日はただの昼寝日和だった。あまりにも平和で、ちょっと油断すれば本当に昼寝してしまいそうな陽気。
「……ノイシュタット様。失礼いたします」
控えめな声とともに、僕の目の前にひとりのメイドが現れた。王宮所属の伝令係――という顔をしているが、実際は僕の直属の諜報員である。
「また何か、動きが?」
「はい。例のグレイス公爵家の令嬢が、今朝より不穏な動きを……」
「……ふう。仕方ない、仕事の時間か」
そう呟いて、僕はゆっくりと立ち上がった。芝生には、まだ彼女たちの笑い声が漂っている。世界は今日も、僕が“無能”でいてくれることを望んでいるようだ。
――なら、期待には応えよう。無能を装いながら、王国の裏側を整える。それが僕の役目だから。