ついに来たわ、マグ・イーレ市!
ぼんやりと青かった空に、やわらかな赤みがかかる。
陽がだいぶ西に傾いてきたあたりで、曠野の向こうに山のような丘のような、とんがった影が見えてきた。
「ヒヴァラ! カハズ侯! マグ・イーレが見えて来たわよ!」
以前訪れたことのあるアイーズは、憶えのある輪郭を目にして嬉々とした声を上げた。
「え……?」
『あれが……? はっっ! もしやその後ろに見える、一直線はッ』
「そうよ、カハズ侯。あれが海よ」
えりかや灌木の茂る曠野は、なだらかな起伏を織りなしていた。最後の高みを越えた時、アイーズの耳元でひゅううっと息をのむ音がする。
広々とひらけた野の向こう、紺碧の水平線と夕空を支えるようにして、湾に大きくせり出した丘。その表面を、城壁と建物とがびっしり覆っている。つんと尖った頂上には、城が乗っかっているらしい。
「何だか、……島みたいだね?」
初めて見る人にとっては、いや何度見たって絶景と言える風景だった。
ヒヴァラが思う通り、見方によってマグ・イーレ大市は海に浮かぶ小島にも見える。この地の名称≪大いなる島≫も、見た目そのまんま印象に由来するのだろうな、とアイーズは思った。実際には、地続きの極小半島なのだけれど。
やがて田舎道は幅広の道、イリー街道に合流した。とたん、ちらほらと荷馬車の姿が見え始める。
「とうとう来たわね! マグ・イーレっ」
「うん。ほんと、どきどきしてきたぞ」
『わたくし感動……』
ずどーんと迫ったマグ・イーレ大市を目の前に、アイーズはふんッと気合の鼻息をついた。
――今回の旅の最終目的地にして、目玉ッ! なんとかして、ヒヴァラの謎いろいろに関する糸口を見つけたいものだわ……!
・ ・ ・
市外壁にあいた町の門をくぐる。
しょぼくれた濃い灰色の外套を着た人達がいるなと思ったら、それがマグ・イーレの騎士たちだった。
「いらっしゃい」
間延びした調子で、その騎士はべこ馬を下りた二人に呼びかける。騎士にこんな呼びかけ方をされるのは初めてだったが、アイーズはつとめて穏やかに挨拶を返した。
「ご旅行で、宿泊される予定ですか? であれば身分証の提示をねがいます」
「あら……、あまり気に留めていなかったけれど、もうそんな時刻ですのね。こちらに滞在になると思うので、……はい、どうぞご覧あそばせー」
アイーズとヒヴァラの差し出した身分証、おもにアイーズの方に身をかがめてささっと目を通すと、マグ・イーレ騎士はうなづいた。
「お嬢さまはファダンからですか。どうぞお通りください」
身分証をしまいながら、アイーズは内心で冷やついていた……。二人で並んで皮紙を提示した時に、初めて気が付いたのである。
――う、うっかりしてた! これじゃ≪ヒヴァラ・ナ・ディルト≫が通門したってことが、公になっちゃったじゃないのッ!? わたしのばかーっっ。
肩掛け革かばんを持ち直すふりをして、さっきのマグ・イーレ騎士をそっと振り返る。しかし騎士はすでに、別の通門者に対応していた。
――うーん……特に、気にしてはいないようね? 身分証もわたしの方、さらっと見ただけだったし。
門を入ってすぐのところにある、公共の厩舎に馬を預けた。ヒヴァラと二人でべこ馬の世話をしつつ、アイーズはそのことについてささやく。
「大丈夫だよ。あの人、俺が通ったの見なかったはずなんだ。かえるさんがとっさに気付いて、≪かくれみの≫の術を俺だけにかけるよう言ってくれたから」
ヒヴァラに囁き返されて、アイーズはほがッと脱力した。
「そ、そうだったの……! カハズ侯、んもう本当に助かるわ!」
『いえいえ、わたくしも本当に通門ぎりぎりのところで気づきましたもので……。でも危のうございました』
例えば、である。ディルト一族と言うのが、マグ・イーレにおいて幅をきかせている超有名な貴族であった場合。正規騎士らは他国籍のディルト姓の者に、好奇の目を向けるかもしれない。あるいはディルト一家がヒヴァラに対して警戒心を抱いており、それこそ指名手配をかけている可能性だってあるではないか。
あまりにも心構えがなっていなかった、とアイーズは痛感し反省する。
そう、マグ・イーレは二人の旅の目的地である。
と同時に、ヒヴァラをファダンから……その日常から引きはがして、ティルムンの沙漠へと連れ去った元凶のある町なのだ。敵地、とさえ言えるかもしれない。うかつに本名をさらしては、危ないのだ!
「……お宿の記帳とかには、別名を書いといたほうがいいわね」
「そいじゃアイーズ。今日はやっぱり、マグ・イーレ市内に泊まるのかい? お金だいじょうぶ?」
「大丈夫よ、ヒヴァラ。わたし一応、お嬢さまだから~」
でもあんまり高くないといいんだけどね、と豊かな胸のうちでアイーズは苦笑していた。