カハズ・ナ・ロスカーン侯の話よ!
『わたくし若い時分から、杖がなくては歩くこともままなりませんでしたのに。ふっと気がついたら、何にもたよらずに一人で湖のほとりに立っていたのです』
「ええ?」
「いきなり、病気が治っちゃったんですか?」
アイーズとヒヴァラの問いに、怪奇かえる男は首を横に振る。
『おかしいな、と思って城の中に入ってみましたら、調度がなくなっていてどこも空っぽ。使用人もいなくなっていて、戸口の脇に≪売り家≫と書かれた看板が置かれていました』
ふわふわと宙を浮くような感触を得て、カハズ・ナ・ロスカーンは実際に自分が空中を歩けるようになった、と知る。
けれど自分の姿は見えない、顔の前に手をかざしても何もみえない。湖水をのぞきこんでも、頭上の空が映り込んでいるだけだった。
『それで、ああわたくしは死んでしまったのだな、と理解したのです。身体はとっくに焼かれて、どこぞに埋められたのでしょう。なかみのわたくし自身だけが飛び出して、こうして永遠にさまようことになってしまったのです』
生きていた時の病のつらさはさっぱりなくなって、疲労も空腹も感じなくなった。
その後カハズ・ナ・ロスカーンは、暇にまかせて湖に棲むかえる達の姿を眺め、その歌をひたすら聴き続けていたのである。
『そのせいだと思うのですねぇ。こんな顔になってしまったのは……』
月日が経って、ある夜カハズ・ナ・ロスカーンは古城に立ち入る旅人の姿を目にした。
彼は久しぶりに他の人間を見てうれしくなり、そうっと壁の陰からのぞいたのだと言う……しかし。
『ごつごつもじゃもじゃした、二人の旅の男性だったのですが。ふんぎゃーと金切り声を上げて、すごい勢いで逃げてしまわれて』
そういうことが何度かあって、カハズ・ナ・ロスカーンはいつのまにか自分の容姿が、ばけもののごとくに変化していると知ったのである。
『長い間に工夫をして、完全に姿を消したり、見え方を多少変えられるようになりましたけども』
「そうだったんですか……! カハズ侯、干しりんごをもう一ついかが?」
怪奇かえる男は大きな目に、きゅるっとまぶた膜を張った。アイーズに向けた目を、細めているらしい。
『いいえ。たくさんいただいたので満足ですよ、アイーズ嬢。……それでヒヴァラ君。きみのお連れの話にも、つながることだと思うのですけど』
草編み腰掛に深く沈んで、怪奇かえる男ことカハズ・ナ・ロスカーンの話に聞き入っていたヒヴァラは、はっとした様子でうなづく。
『生前読んだ書物の内容に、照らし合わせて考えたのです。わたくしは人間としていちど死に、たましいだけが残った。そしてわたくしは、精霊になってしまったのではないか、と』
「……」
『これは誰にも、はっきりわからないことだと思いますが……。一般的に言われるおばけ、幽霊、そこから物語に語られるところの≪精霊≫というのは、多くの場合もともとは生きていた人間なのだ、という説があります。しかし死に際し強い未練を残していると、魂は丘の向こうへ去らない。形すがたを変え、この世界に不滅の存在としてとどまるものなのだそうです』
「それが、精霊……?」
アイーズはつぶやいた。
イリー世界には数多くの精霊がいる。皆に恐れられている水棲馬がそうだし、他にも人間に危害を与えかねない要注意精霊はごまんといた。都市部に住む者には縁遠い存在でも、田舎では山犬や阿武熊、狼と同様に気をつけなければいけない実際問題なのである。
半ばプクシュマー郷に暮らしているようなアイーズだから、精霊たちの存在を鼻で笑うようなことはできない。と言うか精霊を信じないと言うのなら、目の前で話している怪奇かえる男はどうなるのだ。
『はっきりとした姿を見せず、ヒヴァラ君の内側にこもったままで話していましたが……。何となくの雰囲気でわかりました。先ほどヒヴァラ君の身体と声とを使っていたティルムン風の御仁も、精霊なのだとわたくしは思います。その昔は、ひとりの人間だったのでしょう』
「あの……あの、カハズ侯。その、内側にこもると言うのは、どういうことなんですの?」
怪奇かえる男とヒヴァラの顔とを交互に見ながら、アイーズは問うた。
「わたしはさっき横で聞いていて、まるでヒヴァラが別人になっちゃったみたいに思えたのだけど……」
『そうです、アイーズ嬢。ヒヴァラ君の中に、もう一人の誰か……精霊が棲みついていて、彼が瞬時ヒヴァラ君をのっとっていたのですよ。いわばヒヴァラ君は、あの精霊とひとつ身体に共存しているのですね。……それで、≪とりつかれている≫と表現いたしました』
さああ……。ヒヴァラの顔から血の気がひいてゆくのを、アイーズは横目に見ていた。
「カハズ侯。それは、つまり……?」
『そういう状態を、物語や伝承の中ではよく、【呪われている】と言ったりもしますね』