怪奇かえる男が出現したわ!
『あのう。お逃げにならないのですか?』
星空の下、塔の屋上で、どれくらいの間にらめっこしていたのか……。
しかし怪奇かえる男の言葉に、アイーズはふあっと我に返った。
『お嬢さまは、わたくしが怖くないのですか?』
「えーと……。怖いです、はい」
『そうおっしゃる割には、ずどーんと構えていらっしゃる。他の方なら十中八九、きゃーと叫んで逃げ帰るところなのです、ここ』
「……さよですか」
ぬめぬめ動く、巨大な顔の中の巨大な口。
しかしそこから流れてくるのは、しょぼくれたような塩辛おじさん声である。しかもやたらめったら、いいとこ育ちの人がしゃべるようなきれいな正イリー語だ。
『やはり、お連れ様が並々ならぬお方のようですから……。わたくしなんぞでは、びくともなさらないのでしょうか。御仁?』
かえる男は、にゅんと顔を横に動かした。話を振られたヒヴァラは、ぶるるうーっと全身を震わせ、……かくん!! その場にへなへなと座り込んでしまった。同時にアイーズのさくら杖の先端、理術の火がしゅんと消える。
「あっ、ちょっとヒヴァラ!?」
アイーズが慌てて振り返ると、ヒヴァラは石床にへたりこみ、がっくり顔をうつむけている。
「大丈夫? 腰が抜けちゃったの!?」
ひたひたひた……。怪奇かえる男が、さらに二人に近寄ってくる。
『あららら、どうしましょう……。執事や~、気つけぐすりを持ってきて……って。執事はもう、いないのでしたっけー』
ふ・わーっっ!!
その時ヒヴァラの髪が、今までにない赫さでゆらめき輝く。
「!?」
ぎょっとして、アイーズはヒヴァラの肩から手を放した。
ゆっくりと顔を上げて、ヒヴァラが怪奇かえる男に目を向ける。
「何やねんな、お前は?」
いきなりぶっきらぼうに放たれたティルムン抑揚の問いに、怪奇かえる男もアイーズもぎくりとした。
「むしのくせに、人間みたいな図体しよって。闇に紛れて他のやつおどかすん好きって、どんだけ趣味わるいねん? 冗談は見かけだけにしときや」
すいっと立ち上がる中で、ヒヴァラはすらすら早口でまくし立てた。
怪奇かえる男は手袋をはめた手を胸の前で組み、おそれたように小さく言う。
『……わたくしは、かえるです。虫ではございませんが』
「ほんなんどうでもええわ、俺知らんし。つーか所詮、俺とおんなしでばけもんのたぐいやろ? 死んでるなら死んでるで、闇ん中でおとなしゅうしとれ」
アイーズはあっけに取られた。
怪奇かえる男よりも、別人みたいになってしまったヒヴァラの方に驚愕している。燃えるような髪をめらめら赫く揺らめかせて、ヤンシーとはまた別のどすを発している!?
「誰、あなた」
思わず、アイーズは聞いてしまった。
「ヒヴァラじゃないでしょう?」
ふいっとアイーズを見下ろし、ヒヴァラに見える誰かは……にやり、と笑った。
「いーや? 俺やで、あんたのヒヴァラや。蜂蜜ちゃん」
「はち……」
ヒヴァラの顔なのに、ヒヴァラの声なのに、そうではない! 妙に妖しい流し目三白眼とともに、ティルムンの俗的なかわいがり言葉を投げられて、さすがのアイーズもくあっっと赤くなった。
「悪ふざけは、やめてちょうだいっっ」
「どこがおふざけや。ヒヴァラのやつ、びびり抜かして肝心の時はいっつもふぬけになりよる。俺が出てこんかったら、何回死んだか知らんで? 実際」
「……出てくる??」
アイーズは首をかしげた。混乱のきわみ……何がなんだか、さっぱりわからない。
『あのう、お嬢さま。差し出がましいかと存じますが……』
怪奇かえる男が、非常に常識的な態度でアイーズに話しかけてきた。
「はい?」
『お連れ様は、精霊に取りつかれているのだと思います。ご存じありませんでした?』