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翻訳のお仕事も語るわ!

 

「そうだったね。ヒヴァラはうちの、貯蔵りんごが気に入ってた」



 しゃくしゃくしゃく、りんご半分を咀嚼する合間にアイーズは言った。



「うん。秋のりんごの味は、なんでか忘れちゃってて食べたいとも思わなかったんだけど」



 あかりがわりにぼんやり輝いている、(あかい髪の下でヒヴァラのあごも動いている。



「これはずっと、なつかしかったよ」



 しゃくり。アイーズはまたりんごを食べる、……秋のとれたて旬の頃とは違って食感がもさついているし、水気がなくなってすかすかしている。


 けれど不思議と、甘み芳香は強く感じた。冬の冷たさ、時間をこえてのこり続けるもの。



「……貯蔵りんごのおかげで、居残り組どうし一緒にお昼たべるようになったんだっけ。それでヒヴァラに、ティルムン語も教えてもらったんだったわね」



 やがて苦手だったティルムン語が、アイーズの得意科目になっていった。ヒヴァラがいなくなってしまってからも、アイーズはティルムン語を学び続けた。級が上がっても選択科目として取り続けたのは、そこでやめたらあの少年とのつながりが根こそぎ消えてしまうような、漠然とした不安を感じていたから――。


 そこまで強く意識してはいなかったけれど、当時のアイーズにとってティルムン語は、ヒヴァラにつながる細い絆のようなものだったのかもしれない。学び続けた結果、今のアイーズは翻訳士になった。ヒヴァラ少年と仲が良かったからこそ、現在のアイーズがあるわけだ。



「わたしが翻訳士になれたのって、ヒヴァラがきっかけ作ってくれたようなものなんだわ」


「俺、何もしてないよ」



 はにかんだように笑って、ヒヴァラはりんごの最後の一口を噛んでいる。ごくっ。



「でもさ、アイーズ。アイーズはどうして、翻訳士になったの? そんなにティルムン語がいのかい」


「ええ、そうね。まず言語そのものがいから、ずっと読んで取り組んでいても飽きるってことがないの。それに……」



 一行の文章が含んでいる豊かな背景を読み解いて、イリー語になじませていく作業は謎ときみたいでわくわくする。それはアイーズと、そのティルムン語文章を書いた人との間に、声なくかわされる会話のように思えた。


 イリー世界に存在しないものがたくさん出てくると、たいへんだ。読者はもちろん何のことだかわからないし、アイーズだって参考文献で調べてようやく仕組みのわかる事物も多くある。注釈だらけのイリー語版は、作るのも読むのも骨折れだった。それでも誰かの理解の助けになれば、とアイーズはイリー訳文を紡ぎ続けている。



「そうなんだ……。イリー語をティルムン語に訳したりはするの?」


「あ、それはないわ。わたしはティルムン語をイリー語にするだけで、逆方向はないのよ」



 一般に、訳出は他言語から翻訳者の母語に向かって行われることがほとんどである。


 それこそ旧ファートリ邸の床下から見つかったような書類のようなものであれば、アイーズもティルムン語訳ができるし、実際に請け負った経験もある。対応する語が簡潔明快だから、数学の方程式のようにあてはめていけばいい。


 しかし文学作品、物語のような含みを持つもの、文章として人々の感覚に流れ込んでゆくものは、ある程度の創作感性を持った者による母語訳が受け入れられやすく、読みやすいのだ。



「ふうん、そっか。そうなのかぁ。翻訳士ってすげぇー」



 アイーズの説明を受けて、ヒヴァラはうなづいていた。



 そういうヒヴァラは少年時、文官騎士になりたいと言っていた……。思い出して、アイーズはふと問う。



「ね、ヒヴァラ。これからマグ・イーレに行って、ファダンに帰って……。そしたら君は、あらためて市民籍を作るでしょう。その後、何がしたい?」





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