こう見えて、ゴールド免許よ!
アイーズはさかさかと身じたく戸締りをして、父とヒヴァラと表に出る。
小屋を後に、細い小道を集落中心の方へ歩き始めた。赤毛の狩猟犬ルーアは、バンダイン老侯の足にまとわりつくようにしてついて来る。
「ここの家って、アイーズのうちなの?」
背中をひょろんとねこ背にかがめて、高いところからヒヴァラがアイーズにたずねてきた。
「ううん、お父さんの狩猟用別荘なのよ。わたしは静かなところで翻訳の仕事をしたいから、使わせてもらっているの」
「とか言うて~、アイちゃんほとんど一人暮らしだがの」
鹿毛の牡馬の手綱を引きひき、アイーズの父がぼやくように言った。
「翻訳の仕事に集中する時だけ、と思うとったら。いつのまにか、こっちにばっかり居るようになって。冬の間にアイちゃんが凍っちまうんでないのか、とお母さんが心配しとる」
「ふん。あざらし並みに厚いわたしのおにくが、凍るわけないわよ!」
低いはな声で、アイーズはびしっとかっこ良く決める。父娘に前後をはさまれて歩くヒヴァラは、ふわりと笑った。
「……ここも、冬は凍るんだね。今はこんなにやさしい陽気なのに」
かぶった頭巾をちょっとだけ上げて、ヒヴァラは周りに広がる緑の木立と枝葉を見る。
アイーズが振り返ると、そのまなざしはひたすら懐かしそうだった。
「でも良いなあ、ここ。空が水いろで、ほんとの空なんだ」
なんだか謎めいたような、妙な言い方だった……。アイーズは丸帽をかぶった頭をかしげる。一方で、父バンダイン老侯はほのぼのと言った。
「じゃろー。森はゆたかで、おにくになる獲物がいっぱい。しかも、くだものがどっさり採れるんよ。儂のじいさんも、ええとこ遺してくれたもんだ」
「おじさん。あの辺って……ええと、くだもの畑?」
ヒヴァラのイリー語が、少しゆらいだようだった。
「あー、そうそう。もも果樹園」
「果樹……園」
ものすごく久しぶりに使った言葉を、かみしめるように言ったヒヴァラに気付かず、バンダイン老侯はのんびりと話し続ける。
「この小屋。アイちゃんがお嫁に行くまで好きに使ったら良かろ、とお父さんは言うたがね。それこそ好きなだけ、使ったらええよ」
あんまりほのぼのした口調だったから、かえってアイーズは豊かな胸の奥に痛みを感じた。
「……ごめんなさい、お父さん。ノルディーンさんのこと」
「うん、残念だったのー。けど仕方なさそうだね、あれは。忘れんさい」
自分を間に挟んでの低いやりとり、……ヒヴァラにもようやく、それでわかった。
「あのう……。さっき、おじさんと一緒に来た、あの人は」
「あの人はねー。アイちゃんの婚約者だったんよ」
びしいっっと一瞬かたまってから、……ヒヴァラはうろたえた。
「え、え、ええええ!? アイーズの……アイーズのぉぉぉ!?」
ここまで見てきた中、一番の驚愕をあらわしてヒヴァラは叫んだ。日灼けした顔がどんどん青ざめてゆく。
「じゃあ何……うええええ、俺をかくまったせいでアイーズは……、だんなさんに! なんか色々まちがわれて、結婚だめにしちゃったってことぉぉぉ!?」
「まぁ、傍から見たらそうゆうこっちゃ」
「けど、あんな風に聞く耳もたない人だとは思わなかったわ。手のひら返すのも速かったしね?」
「そうそう。やっぱりいいとこの坊はむつかしいのー。意識高すぎなのも考えもんじゃい。次は巡回の若いので素直そうなのを、アイちゃんのお見合いに見つくろおうかい」
「やめてってば、もう。お父さん」
もしゃもしゃ父騎士とふかふか娘、二人の間でヒヴァラはおろおろしていた。
そのひょろんと儚げな肩を、バンダイン老侯のでかい手がぽんぽんと叩く。
「気にしなさんな、ヒヴァラ君。きみがいなかったら、あんなののところに娘をやって、むざむざ不幸にしとったよ」
「え……?」
「アイちゃんのことを自分でこうだと決めつけて、あんな風に見下ろす若僧に。大事なアイちゃんをやれるもんかい」
ちらり、と横目で見てくる老侯のまなざしは、……すさまじく冷静、冷徹であった。
「ふーん、だ。見下ろしてくるあごに一発お見舞いして、失敬な~って言ってやればよかったわ!」
さくら杖をくるッと一回転させ、おどけて朗らかに言うアイーズを……陽光に輝くふかふか鳶色巻き髪を見つめて、ヒヴァラはきゅうッと唇を嚙んでいる。
・ ・ ・
「えー、ヒヴァラ……馬に乗れないの?」
父の狩猟用別宅が属している、プクシュマー郷。この小集落の駅馬業者の店先で、アイーズは小さく驚いてしまった。
「騎士修練校じゃ、乗馬はけっこう上手だったじゃないの~?」
「ごめんなさい……」
「これこれ、アイちゃん。運転なんざ、半年もしないでおったらきれいさっぱり忘れるもんよ。習いたての頃は特にね」
まったき真実である。バンダイン老侯は、じつに正しい。
しかし乗り合い馬車を待つには、時間が惜しかった。仕方なしにアイーズは、何頭かいるうちの一番でっかい黒い牡馬を選び、鞍を外してヒヴァラを後ろに乗せることにする。
「えーと……。アイーズ、あのう」
馬上に引っ張り上げられたヒヴァラが、背後でもじもじしている。
それが何となしにかわいらしく思えて、アイーズは余裕を感じた。
「ふッ、こう見えてわたし優良免許もってるの。心配しないでヒヴァラ、安全運転でいくわよ!」
「……どこ、支えにさわったら……いい?」
ああそこか、と合点が行った。アイーズは馬上にて、てきぱきと肩掛けかばんの帯を直す。
「この革帯の、ここの辺りね。とばさないから、手で軽く押さえる程度で大丈夫よ。あ、でも本当に怖くなったら、お腹に腕まわしちゃっていいからね」
「こ、こうだろうか」
「げふッ、くるし苦しいってばッ。そうじゃなくって、わたしの脇腹を腕でおさえる感じよー」
「ううっ……。アイーズの髪の毛が、鼻の穴に入りそうだぁッ」
小集落を出て、のどかなる陽の下、田舎道を進み始める。
ヒヴァラ君ちっとアイちゃんに近すぎくっつき過ぎだの、と思いつつも父バンダイン老侯は内心で首をかしげていた。
自分のもとの庇護を出て、何とか独立しようともがく娘は最近目に見えて身構え、分別くさい女性になってきた……と思っていたのに。
馬上、不思議な青年とぽんぽんやり取りしているアイーズは、そういう目に見えない鎧を放っぽって、ごくごく自然にヒヴァラの世話をやいている。
それは年相応の男女とは思えない雰囲気だった。わかりあった何かが、娘を動かしている。
この二人は、騎士修練校でもこんな風だったのかもしれない。
再会した時からようやく、その止まっていた時の流れが動き出した……。
それが今なのかいな、とバンダイン老侯は思っている。