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結婚に逃げるつもりだったのね(汗)

「だんなさんになるはずだった、あの人のこと。アイーズはあの人が、かったんだろ?」


「……ノルディーンさん、ね」


「あの人と、結婚するはずだったんだろ。そうするからには、アイーズはあの人が好かったってことなんだよね?」



 責める口調ではなかったけれど、ヒヴァラの声には悲しい硬さがあった。


 こんな所でこのヒヴァラ相手に、嘘をついても何もならないとアイーズは思う。だからためらった後に、答えた。



「前は、ね」



 幾度かのお見合いを経て、ご婚約成立となったのはほんのひと月半前だった。


 これまで少々付き合ってきた人達と異なり、ノルディーンは翻訳士としてのアイーズを尊重してくれたのである。結婚以降もちろん仕事を続けてくれて構わないし、そういった文学的素養のある女性が家に入ってくれるのは大歓迎だと、向こうの家族もじつに好意的であった。加えてあの器量、そして宮城きゅうじょう内近衛騎士の役職。


 末端貴族の娘として生まれ、とにかく翻訳士として生きたいアイーズにとって、ノルディーンはまちがいなく絶好の案件・・・・・だったのである。



「わたしはその辺の、便利な好条件と結婚する気になっちゃってたのよ。……ほんとに、浅はかだったわ」



 翻訳の仕事は大好きだけれど、常に不安と隣り合わせの職でもある。


 仕事をもらえている今はいい。けれど次とその次がある、という保証はどこにもないのだ。今受けている依頼が打ち切りになったら、どうしよう? 単発翻訳を探し続けるのが心身消耗になることを、アイーズは経験して知っている。



――そういう不安を押し切るための保険として、ノルディーンさんと家庭を持っておこうとしていたなんて……。



 交際当時に目を背けていた、自分の本心。それがアイーズの前に今、ありありと醜さをさらけ出しているようだった。



「あの人、実はすごく失礼な人だったけど。本当のところは彼そのものを好いとか思う以前だったのよ。……わたしもノルディーンさんに、失礼なことをしていたんだと思う。謝らなきゃいけないのは、わたしの方なのかもね」


「……」


「あ、でも謝ってより・・を戻したいだとか、そういうのじゃないのよ?」


「アイーズは本当なら、俺じゃなくってあの人と、馬に乗って旅行してたかもしれないのに」


「想像できないわよ、それ。わたしには結婚なんて、早すぎたの」



 と言うより、いったい何のための結婚なのだろうとアイーズは思う。


 生まれてきた子どもにとって、両親の結婚が有利な制度なのは確かだ。か弱い存在がすがりつける、確固たる命綱としての父親・母親という系図。想いあった男と女がやがて他人となる日が来ても、子の父と母が夫婦であった事実は変わらない。成人するまでの生活の保障を、両親から享受できるのは大切なことだ。


 けれど。男と女、その当人たちにとっては?


 二人の間に恋があった事実は永遠に残る。しかし恋そのものは果たして不滅か。


 恋が死んで過去のものになってしまった後も、その二人が一緒に現在を生き続けることは可能なのだろうか? まったく見えない未来にむけて??


 仲の良い両親を参考にすることはできなかった。アイーズにとって父と母とは父と母でしかない。男と女のお手本として、置き換えることは不可能だったから。


 ……こういう方向に考え出してしまうと、アイーズにとって結婚はただのしがらみにしか思えなくなる。周囲の祝福と花と絢爛、そういうものに飾られ隠された見えないくびき・・・


 ファダンの実家で両親や兄ヤンシーに向かっては、あんな人まっぴらよ、と啖呵を切ったが。


 恋については、わからないことばかりだ。


 自分の中に自然にできあがるもの、というそもそもの発生は否めない。けれどそんな謎めいたもの、確信を持てないものに勢いで人生を賭けるのは不用意だと、今のアイーズは身構えている。だから確かな部分だけに、重心をしっかり据えてこう言った。



「ノルディーンさんも嫌いだけど、あの人との結婚に逃げようとしていた時の自分こそ、大っきらいだわ。何よ、多少あぶない橋を渡ったっていいじゃないの。わたしは翻訳士バンダイン嬢として、胸をはってゆくのだわ」



 ふんっ! 言いながら、アイーズは豊かな胸をまっすぐに張った。


 そう、これはすっきりはっきり言い切れる!



「……今の自分はどう? アイーズ」


「うん、今のわたしはめっぽう好きよ。自分の中にある自然・・の声に、ちゃんと耳をかたむけているもの。そういう自分でいる方が、ずうっと楽しいわ!」


「そっか」



 低く言って、ヒヴァラは何だか納得したらしかった。



「じきに日も暮れ始めるし。野宿むけの場所、見つけたら言うね」


「うむ、そうね!」



 左右に迫る樹々の上、だいだい色の光が落ち始めていた。


 それが去れば、森はやがて分厚い暗闇となる。時間も方向も、自分たちのすべての感覚が森の闇の中に飲み込まれてしまうだろうことは、アイーズにも容易に予想できた。


 明るいうちに、落ち着ける場所を確保しなければいけない。……






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