お腹が減っちゃ、旅はできないわ!
・ ・ ・ ・ ・
天幕の中は、いいあんばいに暖かい。
絶妙な具合にたわむ草編みの床は背に心地よくて、着の身着のまま外套にくるまった状態でも、不快ではなかった。
アイーズは靴だけ脱いだものの、疲れているせいもあって即入眠である。
ほんのちょっとの間をへだてて、そこで同じように外套にくるまっているヒヴァラのことは、気にする余裕がなかった。
いいや。豊かな胸の奥底で、気にするべしと貴族令嬢の心得が反発してはいる。友人といえど、としごろ男性と同室就寝なんてあっちゃならないことざます! せめて、抜身の剣を身の間に置くのですッ!
――そんなの、持ってないってばー。
薄れゆく意識の片隅で、アイーズは思う。明日のことは明日になってから悩もう……と考えて、眠りの中に落ちていった。おちていく中で、背中がじんわり温かい気がしたが、それも夢の一環と考えて、うっちゃっておいた。
根本的にものぐさなところは、アイーズの長所の一つである。
・ ・ ・
「ほがっっ」
アイーズは目覚めた。
あまりに気持ち良い暖かさとふかふかの中で、本能が二度寝にいざなう。しかし見慣れぬ空間……。薄暗い草編み天幕の内側風景を目にして、それはいかんとアイーズの理性が反発した。
身を起こす、ヒヴァラの姿はない。もう夜は明けたのだろうか?
もしゃつく鳶色巻き髪を手櫛ですいて押さえつけ、草の壁をそうっとかき分けて外を見た。
すぐ目の前、丸めた干し草でべこ馬の首をすいてやっているヒヴァラの後ろ姿が見える。
「あー、おはよう! アイーズ」
「おはよう、ヒヴァラ。わたし眠りこけちゃった?」
「んーん、まだ夜明けたばっかり。俺も起きて、そんなに経ってないんだ」
べこ馬も、ヒヴァラのやぎ顔も元気そうだ。熱い白湯を飲んで、二人はさっそく出立することにする。
ところで草編み天幕はどうするのだろうとアイーズが思っていたら、ヒヴァラが天幕に向かって何ごとかをつぶやく。瞬間、あれだけ強固に編まれていた草の壁が、ほろほろっと砂みたいにくずれて消えてしまった。二人が野宿した形跡はどこにも見当たらないから、ファートリ侯の追手が通っても絶対に気づくことはないだろう。便利なものだ!
「さーって、ヒヴァラ君! どこに行こうかしらねっ」
まだ薄暗い空の下、両手に手綱を握りしめて、アイーズは言った。
明るく言ってはみたが、目下のところ二人の対峙する大問題なのである。どうする、これから?
「うーん!」
ヒヴァラもまた、べこ馬アイーズの後ろにて朗らかにうなる。
「わっかんないっっ」
それで二人はこの大問題を、いったん脇に置くことにした。とりあえずどこかで何か食べてから、改めて向き合うことにして。
・ ・ ・
半刻ばかり道を南下したところで、ようやく小さな集落に行き当たった。
村とも言いにくいような、いくつかの農家の集まりである。むろん町壁も巡回駐在所もなくて、その点で二人はほっとした。そして集落の中心とおぼしき四つ辻にて、アイーズはイリー守護神に感謝をささげたくなる。
「黒羽の女神さま、ありがとうッ! ヒヴァラ、ぱん屋さんよッッ」
「おおおおおう」
こういった小さな共同体にある唯一の店にはよくあることだが、そこはぱん屋……と言うより、ぱん販売を主体としたよろず屋であった。
巨大な田舎ぱんや黒っぽいふすまぱんの並ぶ棚の横に、瓶詰めや乾物などの保存食、金物道具類に桶ひしゃく、素焼きゆのみも売られている。
せまい中にものをいっぱい詰め込んだ商家の中で、ヒヴァラは嬉しそうだ。
「アイーズ! 俺、あの豆粉入りのぱんがいいと思うんだ!」
「そうね、お腹もちよさそうだしね!」
首邑ファダンに比べると、物価はずいぶん安い。アイーズは豆ぱん十個と田舎ぱん一斤、蜜煮の壺ひとつ、乾燥やぎ乳蘇を買った。
それらを店のばあさんが、ほくほくした様子でぺらぺらの麻布袋に入れてくれる。勘定長台の脇に小さく積まれている地図に、アイーズの目が留まった。開いてみると、ファダン高地の詳細地図だ。
「すみません、奥さん。今ここって、どの辺なんでしょうか?」
巨大な買い物ぶくろの口をきゅっと閉め、ばあさんは節くれだった指でその一角を指す。
「切り株街道をねえ、ちょいと外れたここんとこですよ」
老婆の指が、高地第二分団の管轄地域の外をさしていることをアイーズははっきり確認した。
「店の前の、ここの四つ辻をね。右に行けば切り株街道に戻れるし、左にずーっと行けば山間街道のほうへ通じてるのよ。……蜜月旅行なのに、道に迷っちゃったのかい?」
「ち、ちがうんですようッッ」
思わずかーッと赤くなってしまって、ほうほうの体でアイーズは支払いをすました、……やすい。
そうして店を出たあとで、はたとアイーズは気づく。
「……しまった。あの地図も、買っておいたほうが良かったのかしら」
「いや、俺おぼえたよ」
買い物袋の口を縛ってあった細い麻ひもを結びなおしながら、しれッとヒヴァラが言う。
長く出した紐の端を、器用に麻袋の隅にかたく結び付けて、即席の肩掛け袋にしている。
「ヒヴァラは地図もそうやって、頭に入れられちゃうのね……? すごい」
べこ馬に乗って少しだけ≪左≫へ、山間街道よりへ進んでみる。
ごつごつと岩肌の出た森間地があったから、調達したものをそこで食べることにした。