一人で行くなんて、言わないで!
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「――ぷしッ」
しめた口の内側で、アイーズは小さなくしゃみを破裂させる。
湖畔の小道を西へ進み、やがて左にそれて、南方面に向かう道に出た。
暗い田舎道は気分のよいところではない。何が脇から飛び出すか、わからないのだから。
しかしアイーズの後ろにはヒヴァラがいる。弱音を吐いたり、へこたれるわけにはいかないのだ。
「寒いんだろ、アイーズ?」
「へいきよ! 君こそ大丈夫?」
アイーズは嘘をついた。全然平気じゃない、ずっぽり胸まで湖水に浸かったのだ。寒くて冷たくて、濡れた衣類のまとわりつきが気持ち悪くて仕方ない。
「……湖からずいぶん離れたし。とりあえず俺の兄さん、追ってきてないよね……?」
「そうね。かれこれ五愛里(※)は来たわ。……べこ馬も、疲れてきたみたい」
湖を出た時の駈足はとっくにやめて、今は速歩をさせている。しかしもうこれ以上べこ馬に無理はさせられない、とアイーズは思った。
「アイーズ、そのままとまって。≪かくれみの≫の術を解くよ」
べこ馬の歩みを路傍にとめさせ、アイーズは身体をよじって後ろのヒヴァラを振り向く。深くかぶった外套頭巾の下で、ヒヴァラの髪がまた輝いているらしかった。
「いざ来たれ 群れなし天駆ける光の粒よ、高みより高みよりいざ集え。 集い来たりて 我らがまといし衣の穢れをば払い去れ」
ふぅ・あーんっっ!!!
強烈なあたたかさが、一瞬ぐるりとアイーズの全身を取り巻く。
「ええっっ? な、何これッ」
アイーズはびっくりした。あんなに気持ち悪く濡れていた胸から下が、ふわッと洗いざらしの肌着を着た感覚にとってかわったからだ。ほかほか温かいさわり心地、水が入っていた長靴のつま先までからりと乾いて気持ちいい!
「これは≪乾あらい≫っていう小技なんだ」
わずかに赫く光る髪に照らされ、ヒヴァラ自身の外套もふわっと乾いているのがアイーズにわかる。
「あったかくなった? アイーズ」
「すごいわッ。これも……これも、ヒヴァラの力なの?」
はにかんでうなづく顔が、やさしかった。髪から光が脱けても、小さな丸い瞳がそのままじいッとアイーズを見つめている。
「そうなんだ。……兄さんの言うとおり、俺べつものになっちゃったんだよ。だからね、……ここまでで、いい。俺おりる」
「はあ!? ちょっとヒヴァラぁっ」
「俺をここに置いて、アイーズはヤンシーお兄さんとおじさんのとこに戻ってよ」
慌てて左手に手綱を移すと、アイーズは右手でヒヴァラの手首をつかんだ。
「冗談言わないで! 一人でなんて、行かせられるわけないでしょうッ」
「……これ以上、アイーズに迷惑かけらんない。怖い思いさせちゃったし、……。ここからは俺、一人で逃げるから……」
ヒヴァラの筋張った手首を握るアイーズの右手が、ぷるぷる震えた。
急激にいろんなものが、アイーズの豊かな胸の中に湧き上がってくる……。
ここまで来ておいて一人で行く、などと言うヒヴァラの身勝手にむかむか腹が立ってもいるし、水くささにがっくり来てもいた。
けれど何より、自分から離れていこうとするヒヴァラの意図が――アイーズにはかなしかった。何かをむりやりはがされるような、妙な切なさ。
「あのね、君ね? 助けてくれって頼んでおいて、それで一人でどこかへ行っちゃうなんて……。そんなの、おかしいわよッ」
「た、頼んだっけか」
怒気をはらんだアイーズの声に押され、ヒヴァラの声がびびって震える。
「十二年前に頼まれて、そいで助けるよって約束したんじゃないの! 助ける側のわたしとしては、ようやくめぐってきた使命遂行の機会なんだから! きちんと最後まで、助けさせなさいよっ」
「……離して。アイーズ」
「離しませんッ。君だって、わたしのこと見込んでお願いしてきたんでしょう!? だったらアイーズ・ニ・バンダインを終わりまで信じ切って、頼ってちょうだい! 大丈夫、二人ならたいがいのことは乗り切れるわ!」
啖呵をきったアイーズの見上げる先で、ヒヴァラは鼻をすすり上げた。
「握力つよいよう。アイーズ」
「ふあッ! ご、ごめんねっ」
アイーズは慌てて手を離した。
「俺。……俺、会いたかったんだ……いか酢にんじんと、アイーズに。ファダンに戻って、アイーズに会って、できれば一緒にいか酢にんじん食べて、……そしたらもう後は、どうなってもいいって……。沙漠と森の道ん中で、そればっかり考えてたから」
「君にとってのファダンは、いか酢にんじんなのね」
「アイーズといか酢にんじんだ。アイーズに会えれば、まぁいか酢にんじんはあきらめてもよかったんだけど……。どっちとも再会できて、俺ほんとの本当にうれしかったんだぁ」
ヒヴァラの声が涙まじりになっていく。いつか、発酵の進んだ林檎果汁に酔っぱらってしまった父と長兄とが、ちょうどこんな調子で話していた気がする。つまり泣き上戸。
「だから。……だから、うー……」
「だから一緒にいようよ。ヒヴァラ?」
「ありがと……アイーズ」
混乱のさなかにいるらしいヒヴァラの手をぽんと軽く叩いて、アイーズはふたたび正面に向き直る。手綱を握った。
前方、ぼんやりと白く浮かび上がる道にべこ馬を歩みださせる。
頼りなくても、宙から降る星明りはれっきとした光……。星々の祝福だ。大丈夫。
「アイーズ」
しばらく進んだ時、頭のすぐ後ろでヒヴァラの声が低く言った。アイーズのお腹の上でしっかり組まれたヒヴァラの両手は、震えないでいる。
「アイーズ」
その呼び方に、こめられた何か。
ティルムン語翻訳士として、アイーズには思い当たることがあった。けれど今は、それに気づかなかったことにして――明るいはな声で、アイーズは言葉を返す。
「お宿の受付が終わる、夕の十まえに。どうにかして、集落を見つけましょうッ!」
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※作中の1愛里は、そちらの世界での約2000メートルに相当します。(注:ササタベーナ)