暗い湖畔の道をたどるわ
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「……そうですか。バンダイン両侯は、ともにファダン北町詰所に勤務されて……!」
騎乗して、一行は高地第二分団基地から湖ぞいの林道を西向きにたどっていた。
「いいなあ、うらやましいです。家族と同じところで、一緒に働けるだなんて」
「うるさいことを言われっぱなしで、やりにくいったらねぇっすよ?」
ファートリ侯の言葉に、ヤンシーが答えていた。
ははは、とヒヴァラの兄は朗らかに笑ったらしい。
ずいぶん暗い道である。樹々を透かして、夜空を映し出す湖面がアイーズの右手に見えていた。ファートリ侯はイヌアシュルの町なかではなく、少々さびれた場所に居を構えたと言っていた。
――ヤンシーとそんなに年が変わらないのに、お家を持っているなんてすごいわね! あら、ヒヴァラのお兄さんって結婚しているのかしら? 奥さんや子どもが、もういるのかもしれないわ。
「……よかったね。ヒヴァラ?」
暗い道を慎重に御すアイーズは、べこ馬上うしろにいるヒヴァラにそっと言ってみる。
分団基地の懇談室でも、ヒヴァラは兄を前にあまりしゃべらなかった。再会したグシキ・ナ・ファートリがとてつもなく立派になっていて、しかも自分を温かく迎え入れたから、胸がいっぱいになのだろう。アイーズには、ヒヴァラの気持ちがたやすく想像できた。
「うん……」
かぼそい答えが返ってくる。
「お兄さん、すごく立派だね」
「うん。前からあんな感じだったけど、やっぱりびっくりした」
ヒヴァラの囁き声は、いかにも正直だった。
あの頼もしそうなファートリ侯は、これからヒヴァラと何を話すだろう? もしかしたら、他によりどころのないヒヴァラを引き取って、一緒に暮らそうと提案するつもりなのかもしれない……。アイーズは考える。
――未成年者じゃないヒヴァラを、お兄さんが保護する義務はないけれど……。結局は肉親のそばにいた方が、ヒヴァラも幸せになれるのかもしれない。それにここ、イヌアシュルはとっても静かだわ。これまでの辛い日々のことを忘れて、ゆったりするにも良いところね。
そして、こう言っては何だが辺境であり、辺鄙な土地である。ヒヴァラを追ってきた危険な男たちの一味がまだまだいるのだとしても、ここならば気づかないだろう。どっちみち、人目につきやすい首邑のファダンより、ずっと安全だと思えた。……けれど。
――もしそういう話になったら。わたしとヒヴァラは、またさよならになっちゃうわね?
「どうかした? アイーズ」
思わずアイーズがぷるっと震わせた肩に、ヒヴァラは目ざとく気づいていた。
「ううん、何でもないのよ。ちょっと冷えてきたわねー?」
肩をふるわせたのは、湖からの冷気なんかじゃない。
アイーズの中にある自然が、そんなのは嫌だと反発し抵抗したのである。ようやく、せっかく、とうとう再会できたヒヴァラと、また離れるのは絶対にいやだ……。アイーズの豊かな胸のうちで、自然はそう声高に叫んでいた。
自分を頼り、自分を探し当ててくれたヒヴァラが、ふたたび遠くなると思うとアイーズはなんだか怖かった。
――ちょっとちょっと。何言ってるのよわたし、……本当の友達なら。大事なヒヴァラが幸せになれる手段を受け止めて、応援してあげなくちゃいけないんじゃないの……。
「おやー。後ろから何騎か、来ますの?」
アイーズ騎の後ろを進んでいた、バンダイン老侯がもしゃもしゃとだみ声をあげた。
かっかっか……。
本当だ。数騎分の蹄音が、湖畔の細道にひびいてくる。
「ああ、ご心配なく。私の配下の分団員ですから」
「ええ?」
帰り道が同じ方向なのかしら、とアイーズが思った時。
右手に続いていた樹々の連なりがきれて、イヌアシュル湖が大きく視界に入って来た。
「皆さん。ちょっとだけ、観光のご案内をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
先頭をゆくファートリ侯の軍馬が、細道からくくっと右方向にずれた。
樹々のきれたその場は、小さな砂利浜になっているようだ。
「ここから見える景色が、湖の周辺でもいちばん美しいと言われているのです。沖に浮かぶ、小さな島が見えますか?」
「へぇぇ」
「わぁ!」
ヤンシーとアイーズは、素直に感嘆の声をあげた。確かにすばらしい眺めである。藍色の湖面が満点の星空のもとに、薄ぼんやりと輝くよう。
すらっとファートリ侯が下馬したのに倣い、ヤンシーとバンダイン老侯も馬から下りる。アイーズの後ろ、べこ馬からぎこちなく下りたヒヴァラに向かって、ファートリ侯が手招きをした。
ずかずかと波打ち際の手前まで行ってしまったファートリ侯に、ヒヴァラの背後からアイーズは声をかけた。
「あのう、ファートリ侯。危ないんじゃないですか? この湖って……」
「こっちこっち、ヒヴァラ。あの島、よく見てごらん」
薄闇の中で、兄の指さす方向をヒヴァラは凝視した。
「……島が、どうかしたの。兄さん?」
「住んでいるものが、いるんだよ。あそこに……わかるかい?」
「えー?」
思わずヒヴァラが、そしてその後ろ脇でアイーズが目を細めた瞬間。
ファートリ侯は何かを、ひらっとヒヴァラの顔にかけた。
「!?」
もがっ、くぐもった声を出したヒヴァラをアイーズが見上げた時には、ファートリ侯はすでに弟の両手をうしろに回し上げ、拘束してしまっている!
アイーズは驚いて、鋭い叫び声をあげた。
「なっ……何をするの!! ファートリ侯!?」