んもう、まさかの夢おちなのね(違)
男は、大きな右手をアイーズの左頬にのせかける。
……のせかけたところで、びしりと手ごと硬直して震えた。
「おい。よさんかい、こら。……って、もう……」
アイーズが見つめるヒヴァラの双眸が、ふいと丸いやさしいまなざしになる。
「アイーズに、触るな」
声もきっぱりと、ヒヴァラ自身の調子である。
ヒヴァラはそろそろと右手を引っ込め、ため息を小さくついた。
「ったくもー。ええやん、ちょっとくらい……。つうかお前も、へたれなくせして妙なとこがんこやの。わかったっちゅうねん、退散しますて。はいはい…… ……ごめんよアイーズ、すぐに忘れさすからね。心配しないで……」
アイーズはますます困惑した。目の前で立ち上がった男は、ヒヴァラであってヒヴァラでない……そしてたしかにヒヴァラ自身なのだ。
まるでヒヴァラの中に、ヒヴァラと他のもう一人がいて、互いにしゃべっているようにも見える。こういう芝居をアイーズは見たことがあった、一人二役の喜劇。
「いざ来たれ 群れなし天駆ける光の粒よ、高みより高みよりいざ集え 集い来たりて……」
ヒヴァラの燃える赫髪とアイーズとの間に、白く光る真円があらわれる。
「此処に留まりし憶えをば空に放て」
アイーズが悲鳴を上げかけたその瞬間、ぱん! 真円がはじけた。白い光が室いっぱいに広がる――。
意識を手放したアイーズは、そのまま眠りの深淵に落ちてゆく。
・ ・ ・ ・ ・
翌朝の食堂でお粥を食べるヒヴァラは、いつも通りのヒヴァラだった。
もう何杯めなのか、配膳台へ自分で大鍋からすくいに行って、お椀の中にどっぷり牛酪をおとしている。そのくせ、表情が浮かなかった。
「なんか、しょんぼりしとるの? ヤンシーがうるさくて寝られなかったんかい、ヒヴァラ君?」
年輩だけに朝は元気、バンダイン老侯の問いにヒヴァラは頭を振った。
「いえ、寝たことは寝たんです。でも俺、背中とかお尻が痛くって」
「馬に慣れねぇやつが、一日じゅう乗ってたらなー。そら仕方ねぇよ。おらぁ」
ヤンシーに言われて、ヒヴァラは力なくうなづいている。
「アイーズも元気ねぇな? まくら変わって、眠れんかったか。ごるぁ」
すっぱいやぎ乳蘇に蜂蜜をかけたのをすくい食べながら、アイーズは肩をすくめてみせた。
「そうなの。何だかごちゃごちゃ、夢ばっかり見ちゃって……。あんまり休んだ気がしないわ。わたしって、繊細」
「……だいじょうぶかい? アイーズが疲れてるんだったら、俺べこ馬からおりて歩くよー?」
ぶほッ、父がしぶい香湯にむせた。
「おいごるぁヒヴァラ、それじゃ馬かりた意味がねぇだろッ」
「そういう問題じゃないのよー、ヒヴァラ」
「そう?」
アイーズは笑った、ヒヴァラも笑い返した。……ほんとわたしって繊細。じゃなくて枕がとことん合わない宿なんだな、とアイーズは思う。
――こんなやさしい、控えめヒヴァラが、夜こっそり会いに来るなんて。あるわけないのに夢に見ちゃったりして、やーだわー。実は意識しちゃってるのかしら? わたしってばー。
なんだか妙に生々しい夢だった気もするが……夢は夢だ。
アイーズが朝起きて確かめた時、室の錠はしっかり内側から二重にかかっていた。それに第一、ヒヴァラが同室のヤンシーに見とがめられずにどこかへ抜け出す、と言うのはありえない。
妙にあかい髪のヒヴァラが、寝台の自分に顔と手を寄せてきた……。ぼんやり憶えているのは、それだけ。それ以外は何もなーんにも、アイーズはおぼえていない。
けれど思い返すと、頬が熱くなる。ふだん飲まない、いらくさ香湯を急須から湯のみに注いで、アイーズはその苦みの中に照れをかくした。