結局、旅先でもお鍋たべてるわね!
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「はぁ、けっこうな長旅だった。いまごろお母さん、うちに一人っきりで寂しがっとるかもしれんの」
「いや? ルーアと一緒に、清々のびのびしてんだろぉ、絶対」
バンダイン父子にとって非常に、たいへん、実に都合がよろしいことに、そこの宿屋の食堂には≪ぱん食べ放題どうぞご自由に≫と貼り布がしてあった。
泊り客への夕食として、地元産のひつじ肉を根菜とともに煮込んだ鍋ものが出る。
「なかなかいけるの。おにくがほろほろで、歯の弱ってきたお父さん助かるわい」
「みつばが散って、これってテルポシエ風お鍋よねー? おいしーい、すてき」
「けッ、肉は肉じゃねえかよ。何だってはぁ、激うま」
父と子達がいつもの調子で食べる合間、ヒヴァラは音もなく立って行っては、ぱん籠の中身を大盛りに補充して卓子に帰ってくる。何回おかわりの行き来をしたのかは、アイーズも数えない。泊り客に食事客、燭台のふんだんにきらめく空間はにぎわって暖かかった。
「さーて、ほんじゃ皆おやすみ。しっかり休も」
父・バンダイン老侯は満ち足りた様子であくびをしている。
「ヒヴァラ君とヤンシーの室は、儂んとこすぐ近くの三号室。アイちゃんの十三号室だけ、ちっと離れとるの? しっかり鍵かけんだぞい」
「父ちゃんの高いびきから逃げられて、俺ぁ安心だ。つうかヒヴァラ、お前ぇいびきや歯ぎしりしねえだろうなぁ? ああ?」
「たぶんないです。ヤンシーお兄さんは?」
「あー、俺ぁ寝こきっ屁だけ爆音だ」
一人になって狭い単身用の個室に入り、アイーズはさっさと寝じたくを済ませる。朝から晩まで一日じゅう、長く御したのは久しぶりだったから疲れた。お尻もちょっと痛い。
婦人用の洗い場でお湯を使って、宿備え付けのねまきをすぽりと着れば、もう眠気だけだ。
なかなか素敵なはずみ心地の藁布団と、まろやか手触りの毛布の間にもぐりこんで、アイーズは寝台脇の卓に置かれた手燭の覆いに手を伸ばす。ふうと吹き消した小さな炎は、その後もしばらくアイーズのまぶた裏側にちらついた。
暗闇の中、何とはなしに≪今日のヒヴァラ≫を思い返す。
白地黒ぶちのべこ馬上、アイーズの後ろにのっかったヒヴァラと、たくさん話をした。
話題のほとんどは、一緒に過ごした騎士修練校時代の思い出にかこつけたもの。そういう話をするときは、ヒヴァラは穏やかに朗らかで、昔どおりにひょうきんですらある。時々後ろを振り返っても、やぎ顔がきょろッと楽しげに笑っていた。
裸馬に相乗りは、あんまり快適と言えない。気の合わない人、よく知らない人と一緒の時は、特に気疲れから不機嫌になることも多いのに、ヒヴァラはアイーズに何も文句を言わなかった。あんなに長く乗っていたにもかかわらず。
――もう十年以上、離れて会わなかったのにね……!
こんな風に、ごく自然に仲良しの友達としてヒヴァラと一緒にいられるのが、アイーズには驚きだった。
同時に、ヒヴァラが自分のことをここまで信頼してくれていることを、不思議に思う。
自分の前から忽然といなくなってしまったあの日まで、アイーズは確かにヒヴァラ少年のことが大好きだったけれど……。
――ちょっと引っ込み思案だけど、賢くておもしろい。子やぎみたいな笑顔も、かわいくて気に入ってたっけ。
結婚だの婚約だの未来だのという、その先にあり得たしち面倒くさい色々事項をするっと無視して、あの頃は純粋に単純に、アイーズはヒヴァラが好かった。一緒にいるのが心地良かったのだ、としみじみ思う。
まだまだ子どもでしかなかったから、ヒヴァラにとってのアイーズも鏡に映したようにそうなのだろう、いつ告白してくるのかな、とのんきに楽しみに待っていた……それなのに。
ヒヴァラが突然いなくなってしまってからは、そのやさしく甘い思い出だけが、アイーズの胸に時々よみがえった。けれど温かい記憶はいつもすぐに、苦い後悔によってぺしゃりと押しやられてしまう。
――わたしはヒヴァラを、救えなかった。
そうして運命の導き、いやイリー守護神・黒羽の女神さまのおはからいか。
再会は、ようやくめぐって来た挽回の機会なのだ、とアイーズは思う。そう、ヒヴァラを救う機会だ。
――何としてでも、ファダン市民籍をがっつりばっちり、取得してもらって。
失われた年月の埋め合わせをするべく、幸せになってもらいたいとアイーズは思う。たぶんそこまで付き合うのが、友達としての自分の役割なのだ。
――友だち……。
毛布の中で、アイーズはふかふか寝返りをうつ。
昔の自分はたしかにヒヴァラが好かった、では今は?
だいぶかけ離れた外見になって帰って来たヒヴァラを、自分は男性として見ているのだろうか。アイーズはまじめに自問する。
よくわからなかった。
ここ数年、お付き合いをしてきた何人かの殿方とヒヴァラは、まるで違う。
いまのヒヴァラのように、アイーズはここまで誰かに頼られた経験がなかった。けれど、あなたの人生は私にこそお任せなさい! と上から笑いかけてきた男性たちの笑顔より何より、ヒヴァラのやぎ顔こそが本物に見える。
悲しさ、寂しさを抱えて同時に笑うあのはにかんだ微笑、が。
「……」
昨日の午後、下町でヒヴァラがふっかけられた嫌なからかいと悪事を、つい思い出してしまった。アイーズは、ふんッと鼻息あらく憤慨する。
――これだけ無害でかわいい見かけのヒヴァラに、あんな仕打ちしてくるやつらって。本当にとんでもないわ! 何考えているのよ、いやたぶんなんにも考えていないわねッ。同じファダン人としてほんと恥ずかしいわ、むかむか~!!
ふんふんふん! 毛布内、義憤の鼻息を立て続けにアイーズは噴出する。
――今はとくに、ファダンへ帰ってきたばっかりなんだから。ヒヴァラはつい、戸惑ったりぼんやりしちゃったりもするでしょう。そういう弱みにつけ込んでくる意地悪おばかどもから、やさしいヒヴァラを守るのよッッ。
ふんふん、ふかふか!! 正義感と使命感とが、アイーズの中であつく燃えさかる!
……のだが、ふあー。
アイーズは眠気に負けた。意識が沈んでゆく……。
かた、かたん。
どこか遠くで――いや。すぐ近くで、音がした。
ごく一瞬だけ目ざめ、即ねむりかけたアイーズの脳裏で、危機管理本能がずばッとひらめく。
――錠が上がった音ッ!?




