ナイスな野良仕事スキルだわ!
不愉快なるすり未遂事件の後。
自宅近くの八百屋さかな屋で大量の根菜とねりもの類を購入してから、アイーズとヒヴァラ・アイーズ母の三人はバンダイン家に無事帰宅した。
この後の台所は、母の独壇場である。
高地イヌアシュルへむけて、明日の出立のためにアイーズは肩掛けかばんの中身をあらためた。
ついでにもう一度、西町の旧ファートリ邸から出てきたかび臭いティルムン語の書類にもざっと目を通す。
「……」
昨日は内容をつかむことに集中していた。
細かい数値を把握していた、ヒヴァラの驚異の記憶力。そのおかげでオウゼ書店では、栗粉輸出の流行とそれにまつわるヒヴァラの父・ファートリ侯の関係を推測することができたのだ。そして……。
今ようやく、アイーズはこの書類すべてを筆したのが同一人物、ファートリ侯なのだと確信をもって読めるようになっていた。
――その時々の調子のぶれはあるわ。けれど他の人ではありえない。これを書いたのは、ヒヴァラのお父さん。
よく、字にはその人なりがあらわれると言われる。
専門家ではないから、何がどう表現されるのか、詳細はアイーズにはわからない。
しかし自分の書く字がいかにも自分っぽいな、と思うことはよくあるし、その人≪らしい≫字、という見方は何となくわかる。
アイーズの手中の書類は、書いた人物の几帳面さ、生真面目さを無言のうちに表していた。
間隔均等で読みやすく、めりはりのきいた筆づかいは明らかに男性の筆致。けれどくせと言うほどの飾り方はなく、淡々とそっけない語ならびでもある。いかにもお役所勤めの文官騎士、という字だった。ひねくれたところは、どこにも見当たらない。
――ヒヴァラのお父さんファートリ侯も、そういう人なのでしょうね。……今、どうしているのかしら。
高地イヌアシュルでヒヴァラの兄に会い、父親の行方もはっきりわかればいい、とアイーズは思う。
筆記布の束をそろえてまとめ、布包みにして自室の机の上に置く。
階下へ降りていって、台所の母にアイーズは声をかけた。
「お母さん。なにか手伝うこと、あるかしらー?」
籠いっぱいに詰まった野菜の皮くずを堆肥箱に入れるよう頼まれて、アイーズは台所からのしのし外に出ていった。
せまい裏庭の隅にある木箱に籠の中身をあけて、小さなくまででかき混ぜる。
地味に乏しい南海沿岸部のイリー諸国において、堆肥づくりはごく普通になされている家事の一環であった。
一般家庭で出るごみのほとんどは、資源として循環利用されている。
布ものは燃料となり、灰はさらに堆肥にまぶされた。
都市部では細分化された専門業者による回収が頻繁に行われているから、自宅で処理できない者でも安心である。
おまる中身の回収業者は、とくに尊ばれていた。彼らは集めたものを共同体の外で数年間発酵させ、有機肥料として農家に還元するのだ。
――あらら? 中身が、まっくろ??
くまでで木箱の中身を混ぜかけて、アイーズは手を止める。
最近、誰かが堆肥の天地返しをしたのだろうか? 発酵分解の進んでいた木箱の下部分から出てきた、若い土ばかりが広がっていた。
生ごみ臭の代わりに、ほかほかとした春のいなか農地の匂いがただよう。
くまでに引っかかってきた大きなみみずが、首をかしげてはあい、とアイーズにあいさつをした。
「……??」
ふたを閉め、使った脚立を片付けてから庭を見渡す。
やたらきれいだった。
昨日プクシュマー郷から帰宅した時は、もっとこう……。ぼさぼさと雑草のはびこる部分があったはずである。今はそれがない。
小さな畑の畝からもぺんぺん草が省かれて、くっきりと黒い地面がいんげん支柱のあいまに見えた。
母はもう少し、いいかげんな姿勢で庭づくりに取り組む方針だったはず。広い庭ではないけれど、一朝一夕でそれがこんなに整えられているなんて……?
奥に生えている古いりんごの樹にむけて、アイーズは首をかしげた。
父や兄がするわけはなし……(後者は特に想像できない)。
一体だれが、とアイーズは思うが。そもそもヒヴァラでしかないではないか。
台所の母に籠を返し、廊下に出ると玄関の方に気配があった。
「お前はほんとにもふもふで、もふもふやなー? 暑くないんかい、こんなに毛深くて」
ヒヴァラの声、低く小さく話すかすれ声が、アイーズの耳に入ってきた。
「俺のおったとこにも、犬ねこはようけおったけどー。お前みたいなんは、見たことないわ。みーんな短い、すべすべの毛ぇしとったしな。あれはやっぱし、砂にまみれんようにそうなってるんかいなー? 何やいちばん毛深いの、たぶん人間ちゃうんかて気がするし」
やたら早口でまくしたてられるその言葉は、半分ほどもアイーズには聞き取れない。
「まふッ」
「あっ、なんや。おこりよったー」
玄関脇の背高い戸棚のかげから、ルーアがふいっと出てきた。
バンダイン家の猟犬はふさふさしっぽをぴーんと張って、つーん! とした態度で廊下を突っ切ってきた。が、アイーズがいるのに気付いてふかふか寄りついてくる。
「あ。アイーズ」
次いで、戸棚のかげからひょろんとヒヴァラが姿をあらわした。
しゃがんでルーアをふかふかなでながら、アイーズはヒヴァラを見上げる。
「ヒヴァラ。もしかして、庭の堆肥の天地を返してくれたの?」
「うん」
やぎ顔が、おだやかにうなづいている。
「……お庭と畑の草むしりしてくれたのも、君なの?」
「うん……」
はにかんで、うつむくようにヒヴァラは再度うなづいた。
しかしそのほそみ顔の首から下。麻衣も股引も、全然汚れてなんかいないのである……。
それだけの野良仕事をしたのなら、どろどろ土や草汁にまみれていそうなものなのに??
「……ものすごく仕事がはやいのね? ここに帰ってきてから、ほとんど経っていないのに。あれだけのこと、短い時間のうちにやっちゃったの? すごいじゃない」
感心をこめて言ったアイーズの前、ヒヴァラはますます深めにうつむいた。
「うん。……ほら、向こうではずうっとそういう仕事、してたから。慣れてるんだ……」
少し照れたように、ヒヴァラはぼそぼそ言った。
「おばさんの役に、立ったかなぁ」
「ええ。お母さん、すっごく喜ぶと思うわ。お鍋の煮込みに入ったら、言ってあげてね」
嬉しそうに、ヒヴァラはほろッと笑った。
そのヒヴァラの足もとに、ルーアがもそりと寄っていって、ふかふかお腹をすりつける。
「ほんとに、かわいいな! ルーアは。ふかふかの、ふかふかで」
長い身体をひょろんとかがめて、ヒヴァラは赤犬の首ねっこをなでた。
初めて会った時はルーアにだいぶびびっていたが、今のヒヴァラはすっかり慣れて心をゆるしているらしい。
犬の方でも、おだやかなヒヴァラを気に入っているように見えた。ちなみにルーアちゃんは、がさつな末の兄を格下とみている。
――さっきはなんだか、つん顔していたけどね……? ルーアちゃんの気まぐれかしら。
「あ~~。にぼしのだしの匂いが……してきたねぇ!!」
まろやかやぎ顔をさらにとろけさせるように和ませて、ヒヴァラが言った。
「この中で、かぶとにんじんとたまながゆだって。さらにさかなのつみれと貝柱がいっしょに煮られるんだぁ……。そこに加わるであろうゆでたまごって。ああ、どんだけおいしいのかな。たまんなーい」
「だいこん忘れないでね?」
「そうそうそうそう、おだいこん」
聞いているうちに全身の力が脱けるような声で、ヒヴァラは言った。のどか極まりない。
高地にいる兄に会いに行く明日のことは、今この瞬間は忘却のかなたなのだろう。
父と兄とが帰宅して、≪デーヌの息子鍋≫を囲みたべる瞬間がじつに楽しみである!!