にぼし工房直売店でトラブルですって!?
石橋を渡った先にある北町と東町の境界は、にぼしなどの干物工房の集まる一画だ。
海鮮物の潮っぽい香りと、それをいぶす木材の匂いとが、周辺の空気に入り混じっている。
「うわああああ……」
ヒヴァラは高ーいところにある顔の中心、鼻をひくつかせて控えめな歓声をあげた。
「なつかしいなあ! このにおい」
「あら。ヒヴァ君、この辺にはよく来ていたの?」
「いえ、来てないです。でもこの辺ぜんたい、ひもの屋さんのにおいだから」
脇でアイーズも、ふあんとうなづいた。
――そう、この界隈ではないけれど!
騎士修練校の近くにある小さなにぼし工房に、二人で時々放課後に寄った。
規格外の小さな魚、身が折れたり割れたりしてしまったのを袋に買って、一緒に食べていたっけね……、とアイーズは思い出す。
いわしの他に別のものがまぎれこんでいることもあって、それを探し出すのも楽しかった。
ファダンの子どもなら誰でもしていること。けれど、当時のヒヴァラは知らなかった。
「アイーズに、にぼしの買い食い教えてもらったんだったー!!」
うれしそうにやぎ顔が見下ろしてくる。
つられて笑いかけて、うぐっとアイーズは固まった。
「あらまぁ、そうだったのぉぉぉ」
くるーり、と振り返る母の眼光がするどい。
いいとこのお嬢さまが、立ち食いなんかしちゃいけません。食べるんだったらお座んなさい! 母はずうっとそう言いつけて、アイーズを育てたのである……。
でもって自分が≪いいとこのお嬢さま≫に当てはまるのかどうか疑問を抱いていた当時のアイーズは、そういう母の言いつけを左耳より拝聴してから右耳に排出していた。
十年以上前の話だ。時効にならないだろうか。
「まあ、にぼしは食べればたべるほどに、頭がよくなるわねぇ」
低ーいどす声で謎の見解を言い放ってから、母はひときわ大きな店構えの一軒をすいと手で示す。
「今日はいちばん大きなにぼしを買うから、あそこに並びますよ」
がっしりした灰色石組みの工房兼店舗は、扉を開け放してあった。そこに客が列をなしている。店の中からはみ出した四・五人が外側に並んでいた。
夕食準備には早めの時間帯なのだが、さすがの繁盛っぷりである。工房直売のひものは、小売店よりも安いのだ。
「よかった。今日はそんなに待たされそうにないわ!」
「……これで? お母さん」
母に続き店の前にそった列の最後尾について、アイーズは問うた。
「そうよ、アイちゃん。この後はどんどん人が増えていって、あそこの角まで列がのびている時もあるんですよ。どれ……ヒヴァ君、籠をちょっと持っていてね?」
自分の持参していた中籠をヒヴァラにあずけると、母はあごをしゃくった。
「この待ち時間、および待機人数複数で臨戦していることを有効に活用して。お母さんは店内本日の品ぞろえおよび価格を偵察してきます。二人は列の順番を確保するように」
「はいっ、おばさん」
厳格に言ってうなづくと、母はさささとさりげなく、店内に入っていった。
人びとの後方より、目立たぬかたちでひものを吟味する気なのだ。
薄い両肩に二つの籠をかけて、ヒヴァラは中年女性の後ろでじっと立ちつくす。そのさらに後ろで、アイーズも何も言わなかった。
……が、ふと自分の長靴ひもが解けているのに気付く。アイーズはさくら杖を腿のあたり、水平にはさみこんでしゃがむ。
ひもを結び直して立ち上がって、とそれはほんの一瞬のことだった。
しかし自分の目の前に今、ヒヴァラ以外の誰かが立ちふさがっているのを見て、アイーズはぎょっとする。
ふかふか横にかさばってはいるが、小柄なアイーズは背高い人の視界にそもそも入らないことも多い。
悪意のない割り込みと判断し、すみません連れと一緒なんですよ……と男性に言いかけて、アイーズはぴくりとした。
「お兄ちゃん。いかした靴はいてるね?」
ヒヴァラほどではないにせよ、上背のあるその男性は、やたらに慣れなれしい口調で話しかけていた。
「つま先のところ、だいぶ珍しい形だけど……。最近って、こういうのが若い人のはやりなのー?」
「えっ……??」
ヒヴァラが少々驚いて、困惑ぎみに声を上げたのをアイーズは聞いた。男性の背中の向こう。
「ほら~、おじさんのと比べると。君の、だいぶ平べったくかさばっているよねぇぇ?」
男性はいまヒヴァラにびったりくっついて、自分の左足先をヒヴァラの足先に並べて見せているらしい。
指摘していることは本当だ。
アイーズも気づいてヒヴァラに聞いていた。ティルムンの靴というのはあひるのくちばしのように、つま先部分が平べったくなっているものなんだそうだ。
≪沙漠の家≫であてがわれていたはきものは、全てこんな形だったという。また砂地が大半の場所で野良仕事をする時には、さらにつま先が広くかさばった長靴をはいていた、とヒヴァラはアイーズに語っていた。
イリー人の目には奇妙な形であるが、砂が内側に入り込むのを避ける工夫の構造らしい。
……しかし。
ヒヴァラの左半身にほとんど貼りつくようにして立った男性は、不自然なまでに足先をさし示していた。ヒヴァラの注意を完全に、そこに集中させるため。
するり!
そして実にさりげなく、男性の右手が肩にかかった籠の中に入り込もうとするのを、アイーズは見る。
――あれって、お母さんの預けた籠! 中にはお財布がっ……!!