え? 牛のこと、べこって言わないかしら?
「……つまり。ヒヴァラのお父さんが書類作成を代行していたとして……。ファートリ侯は、その栗粉大流行の波にうまく乗った貿易業者を顧客にしていた、ってことになるわよね」
イリー暦166年にヒヴァラが連れ去られる前の数年間。
ヒヴァラの父・ファートリ侯は文官としての仕事のかたわら、ティルムン語翻訳代行の仕事をしていた。彼が書類作成を請け負っていた、北部穀倉地帯からの栗粉輸出は、そののち大流行に発展する。
納品書に関するヒヴァラの正確な記憶と、貿易白書の内容を照らし合わせることで、アイーズはここまで推測することができた。
「それにしちゃ、うちははぶりがよかった風もぜんぜんなかったけどなあ? お金たくさんもらえてたんだろうか、父さん」
どこか他人ごと、という態度でヒヴァラが首をひねっている。きりっとお代わりをしていく食事どきと違って、牛乳を飲んでいる姿はゆったりくつろいだ様子だった。
「前にも言ったけど。書類翻訳の代行って、ひとつひとつの単価は低いのよ。お父さんが文官の仕事の片手間にしていたのなら、分量はそんなにこなせない。それでひともうけ、とまではいかなかったと思うわよ?」
――ただ……。
アイーズはやはり、その先の推測をヒヴァラに話すことはできなかった。
栗粉にまつわる翻訳代行は、当時波に乗った分野であったぶん、ファートリ侯の仕事の選択肢は広がったかもしれない。そこでヒヴァラの父は顧客を拡大するうち、むこうで農奴を探しているような悪徳の人身売買業者に引っかかってしまった、という可能性がある。そういう輩の口車にのせられて……。
となるとヒヴァラを引き渡したのは、彼の両親の意図したところではなかったかもしれないではないか。そう、ヒヴァラだけでなく両親も被害者だったのだ! マグ・イーレの親戚のもとへやるつもりが、予想もつかない遠方へ持っていかれて、ヒヴァラを探しようもなかった。それを苦にしての両親の離婚、一家の離散だったのだとしたら??
なんてひどい話かしら、とアイーズは思う。このままでは、誰も救われない。
――でも。
アイーズは、そっと横のヒヴァラを見上げる。牛乳をのむ青年は実にうまそうに、特大ゆのみの中の幸せを満喫しているようだった。
――ヒヴァラは生きて帰ってこれたんだもの。ここから、皆でまるっと幸せになる道は……絶対にあるはずよね!
「牛って、好いな~~」
言ってるヒヴァラこそ、草原でもーと鳴く牛みたいにのどかである。
二日前に再会した時は、その変わりようにおどろいた。何と言っても成人男性なのだし、対してのかまえる姿勢をアイーズはどこかで取っていたかもしれない。
……けれどこうして一緒にいれば、ふだんのヒヴァラはこちらを脱力させるような言動ばかり。
つらい経験を越えてきたのは確かで、そこにはどうしても触れられないが……。アイーズは気楽だった。
それは別れるまえに、自分たちの間にあったもの。なつかしい気楽さが、そのまま今のアイーズとヒヴァラの間によみがえっている。
「そうよ! べこは好いのよ!」
どや顔で、アイーズはヒヴァラに笑い返した。