西の抑揚は、つぼにはまりやすいわ!
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バンダイン家の朝は早い。
父と兄とが出勤してしまうと、母がものすごい勢いにて掃除洗濯その他もろもろを始める。
アイーズはヒヴァラを伴って、さっそくオウゼ書房へ向かうことにした。
「おばさんを手伝わなくって、いいのかなあ」
「邪魔しないのも、手伝いのうちなのよ」
アイーズはまるい両肩をきゅっと上げて、バンダイン家の玄関口を振り返るヒヴァラを見た。
冷気の残る朝の中を、二人は南に向かって見通しの良い大路をゆく。のしのし、ひょろん。
今日もまずまずのお天気だ。石だたみの上を、出勤する人々が足早に歩いてゆく。数々の商家はじきに開店するところ、道端に立て看板や持ち出し棚を設置している人たちがたくさんいる。ばけつの並んだ花屋の前を通ったら、ばらの香りがアイーズを取り巻いた。ふわり……!
アイーズは出かける直前、ヒヴァラの旧実家で見つかった書類を見比べてみた。
明るい陽光の下で見ると、ヒヴァラが前夜に言っていた通り、どの納品書も一定の濃さの墨で書かれているのがわかる。アイーズが使っている、ファダン国産品の墨と変わらない。
「文章の内容ばっかり見ていたから、気が付かなかったわね。でもヒヴァラ、これは特におかしなことではないと思うの」
首をかしげて見下ろしてくるヒヴァラの向こう、空色外套を着た十歳くらいの男の子が駆けてゆく。騎士修練校に遅刻するところか。
「墨の種類以前に、北部穀倉地帯の農家がティルムン語ですらすら納品書を書ける、っていうのが変じゃない? イリーの農家さんにだって、そんな人はまずいないわ。だからあの書類はもともと正イリー語で書かれたものを、ティルムン貿易にかかわる業者が訳して書き直したものじゃないか、とわたしは思うのよ」
「うあああ、そっかぁ!」
がふッ、と衝撃を受けて口をまるく開けながら、ヒヴァラが小さく叫んだ。
今日もヤンシーの古い紺色ふくろ外套、その下には兄のどれかの実家置き服を着ている。
ごく質素な毛織と股引姿で、ヒヴァラはその辺にいる地味なファダンの若者にみえた。ただ実際の年齢よりも、ずっと若い印象があるが。
「俺は、あほうだ!」
まじめに言い放つその言い方が、アイーズのつぼにはまった。ぶぶっ、と噴き出してしまう。
「なにー!?」
「いや……だって、その≪あほう≫の発音が。とびっきり本場風なんだもの」
「こんなので受けるのかい、アイーズ!?」
「うん、なかなか面白いわー。それでね、書類の話なんだけど」
イリー都市国家群のある大陸南海の沿岸部、そこをさらに東に行くと≪東部大半島≫がある。おもに暗色髪をした≪東部ブリージ系≫と呼ばれる人々が住んでいて、イリー人とは全く異なる暮らし方をしていた。
その大きな半島の北端部分が、≪北部穀倉地帯≫と呼ばれる一帯なのである。
地名の通り、肥沃な土壌と温暖な気候を活かして、そこは一大食糧生産地となっていた。イリー諸国の食糧流通にも、大きくかかわっている。
ところでその東部大半島には、古くから書き言葉と文字がなかった。
東進してきたティルムン人の末裔、すなわちイリー人と交易をおこなうために、北部穀倉地帯の商人は正イリー語を導入して、積極的に利用するようになったのである。
よって北部穀倉地帯においてもののやり取り証書を作成するなら、正イリー語表記であるはずなのだ。ティルムン語ではありえない。
「だからね……。ヒヴァラ、これから言うのはほんとの本当に、わたしの想像よ?」
「うん……?」
ひょろんと長細い身体をちょっとかがめて、ヒヴァラはアイーズの言葉に集中している。