ソルマーゴ・ナ・ファートリの真実
「……術ですって? ファートリ老侯は、何をされたというの……?」
アイーズのつぶやきに、ペレーグはうなづいた。
「向こうの軍人、つったら理術士だろ? だから理術をかけられてこんな風になった、ってことなんだろうな。俺だって初めはわけがわからなかった。数か月して、ようやくソーマさんが少し回復したから、ちょっとずつ話を聞き始めたとき……」
ファートリ老侯と話をしつつ、ペレーグは茫然とした。
ソルマーゴ・ナ・ファートリは、過去およそ二十年分の記憶をごっそり失っていたのである。自分がファダンの文官騎士であったことはわかっていたが、そこで築いた家族のこと、亡くした前妻と長子グシキ、レイミアとヒヴァラのことを全く知らないと言う。
こんな不自然な細工ができるのは、物語に出てくる魔法……。つまり現実におけるティルムン理術に違いない、とペレーグは理解したのだった。
以前のファートリ老侯は、静かな中にも生気を内に秘めた人だったが、それが脱け落ちていた。失くした思い出への執着もなく、再び得ようとする意欲もない。
ただソルマーゴ・ナ・ファートリは、ティルムン語翻訳だけは喜んでこなした。暇を持て余させるよりは、とペレーグは荘園内で生じる納品書などの作成を任せていたのである。
「無償で十年も? それを奴隷扱いって言うんじゃないの!」
「他にどうしろっつうのよ。ファダンの長男のところには連れてけないし。騎士団に助けてやってくれって頼んでも、どうにかなるもんでないだろうが」
アイーズの糾弾に、ペレーグが苦い顔で答えているところへ、ヒヴァラがぼそりと割って入った。
「……あなたが。ペレーグさんが、病気の父さんの面倒みてくれてたってことですか」
「そういうことになるんかなぁ。身の回りの細かいことは、下働きのじいさんばあさんが世話してるけどね」
「それじゃ、……ありがとうございました」
うつむきながら言ったヒヴァラを、アイーズとカハズ侯、ティーナ犬は驚いて見る。
「そのままほったらかしにして、死なせちゃうことだってできたのに。あなたは父さんを見捨てなかった……。どころか、父さんが一番好きな翻訳の仕事をさせてくれてたんだ」
「……」
ペレーグは机の上に組んだ腕を置いて、じっとヒヴァラを見ている。
やぎ顔でもないし、ヒヴァラの母レイミアとも全く似ていない。けれどさみしげな微笑み方が同じなのは、やはり血縁者だからなのかとアイーズは思う。ペレーグもまた、ヒヴァラの伯父なのだ。
「でも。どうして父さんに、そこまでしてくれたんですか」
「……俺の妹のせいで、不幸にさせちまったっていう負い目が大きかったね。でもファダンで何度か会って話しているうちに、俺はあの人を尊敬するようになってたから」
北部人とイリーの混血。はっきり出自を言えないペレーグに対し、ソルマーゴ・ナ・ファートリは常に尊厳をもって接してくれたと言う。
剣を持たずに何が騎士なのだろうと思っていたペレーグは、ファートリ老侯の人柄に感化されて、文官への考えをも改めていた。
「……だから。そういうソーマさんだからこそ、せめて君のことは思い出して欲しくってさ。……ディルト家から、脱走した君が理術士としてイリーに戻ってきてるらしいから、網を張っとけと連絡が来た時も。どうにかマグ・イーレ勢を出し抜けないもんか、とテルポシエでやきもきしていたんだ。東区の貿易業者事務所で、アイーズに会えたのが運のつき」
『……あなたは、ディルト侯に反目しているということなのですか? あなたにとってダウル・ナ・ディルトは義理の縁者であり、ここの荘園の持ち主としては上司であるのに?』
「それとこれとは話が別だよ、かえる様。確かに君らにこんな風に接してるとダウルに知れたら、俺は免職どころか殺されてその辺に埋められちまうかもしれないけど……。にしたって嫌なんだよ、その……。友だちがこんな風に人生終えるってのは」
アイーズは目をみはった。とほほ、と言いたげにしょんぼりとした様子のペレーグは……。
――そうか。この人は、ファートリ老侯の友人だったのね……!




