カハズ侯の悲劇シナリオどおりだわ(なんてこと)
「私はある時、ティルムンへ赴いたらしくてね」
痩せさらばえたファートリ老侯は、ひとごとのように自分の話を語った。
「そうしてそこで、大きな病気にかかってしまったようなんだ。高熱を出したせいだと思うけれど、それまで一体何があったのか、記憶をなくしてしまって今にいたるのだよ」
父を見るヒヴァラの横顔が、茫然としているのがアイーズにも見える。
「おぼえてないの……? 俺のこと、兄さんのこと……母さんのことも?」
「ネイサさん、という許嫁の娘さんのことは憶えているよ。けれどティルムンなんて遠方へ行くむちゃをした私にあいそを尽かして、どこか他のよいところへ行ったろうね。昔の話だよ」
ずっと前に亡くなったという前妻――ヒヴァラの兄のグシキ・ナ・ファートリの実母のことを言っているのだろうか、とアイーズは見当をつけた。それにしてもあまりの衝動に、アイーズはどうしたらよいのかわからずにいる。
――記憶喪失だなんて……。これじゃあカハズ侯の言っていた、物語のあらすじそのままじゃないの!
「……もう十年になるけど、ずうっとこの調子なんだ。何を言っても、ソーマさんは自分の考えに疑いを持たないし、考え直すこともしてくれない」
背後でぼそり、とペレーグの声がする。アイーズとヒヴァラは振り返った。
「ティルムンで、向こうの風土病にかかったのは本当だ。帰ってきた時、半分くらいの見かけになっちまって、もう足が立たなくなっていたからな。付き添っていたティルムン貿易商人に肩をかされて甲板渡し板を降りてきたと言うし、そこからは俺が馬車に乗っけてここへ運んだ。病みつく前は、二本の杖を使ってどうにか歩いていたよ」
つまりペレーグは……約十年前にヒヴァラの父がティルムンから帰還して以来、ファートリ老侯と一緒にいたということなのだろうか。ヒヴァラのこと、後妻との顛末、そこにつながる人生の大部分の記憶をそっくりなくしてしまったソルマーゴ・ナ・ファートリと?
「……ペレーグさん。あなたは一体、どういう経緯でファートリ老侯を……」
「その辺は、また後で教えるよ」
どすを抑えた声で聞いたが、アイーズの問いはペレーグに軽くいなされてしまった。
「それよりヒヴァラ、もっと親父さんに話してあげてって」
促されて、ヒヴァラはおずおずと言葉を継いだ。
「……とうさん。とうさんは俺を探しに、遠くまで行ったんじゃないか。お願いだから思い出してみて、グシキ・ナ・ファートリの弟で……。あなたとレイミア・ニ・ディルトの子の、ヒヴァラ・ナ・ディルトだよ」
「グシキ・ナ・ファートリは、私の亡父の名だよ。そして他の名を私は知らないし、子どももいない」
済まなさそうに、しかしはっきりとソルマーゴ・ナ・ファートリはヒヴァラに言った。ペレーグが低い声で、口を挟んでくる。
「ソーマさん。レイミアはあんたに酷くしたが、あんたはあいつと俺によくしてくれた。そのレイミアとの息子なんだ、何とか思い出さねぇかなあ」
「わるいが、ペレーグさん。本当に知らないのだよ……。失礼。だいぶ疲れてしまった」
言って、ファートリ老侯はゆっくり背中を傾ける。重ねた枕の中に身をゆだねると、目を閉じた。そのまま無言になる。眠ってしまったらしかった。
ヒヴァラは寝台脇にしゃがんだまま、枕に埋もれた父の顔を見て、肩をふるわせている。
あまりにいたたまれなくなって、アイーズはさくら杖をファートリ老侯の寝台にそっと立てかけると、ヒヴァラの両肩に手を添えた。
ヒヴァラはゆっくりと立ち上がり、父のお腹にかかっていた肩掛けのような毛織布を、首のあたりにまでかけてやる。
いかにも、ぎこちない手つきだった。




