どういうことなの、ファートリ老侯!?
「ソーマさん。あんたの息子さんが来たよ」
ペレーグに穏やかに背を押され、まずヒヴァラが、続いてアイーズが室内に入った。
大きな窓から差し込む陽光が、何もかもはっきりと照らし出す場所である。
暗い地上階の廊下を通ってから、急に明るい室に入ったせいかもしれない。しかしアイーズは眼前の光景に、くらくらと軽いめまいを感じそうだった。
まさか、とその次が思い浮かばない。
さほど広い室ではなかった。窓のすぐわきに寝台があって、そこに上半身を起こした人がいる。
その人は背中にいくつも枕を重ね、厚い毛織りの室衣を羽織って、寝台の上に病人がよく使う平べったい食卓台をのせていた。
けれど、ものを食べているのではない。筆記布と墨壺を置いて、静かに硬筆を走らせているのである。
「ソーマさん。調子はどうだい」
もう一度、ペレーグが言う。だいぶ大きく発されたその呼びかけに、寝台上の人はゆっくりと顔を上げた。
「やあ。どうにも変わらないね」
かすれ声で、病人は答えている。アイーズの目にその人は老人、と映った。
ヒヴァラそっくりの、痩せさらばえたやぎ顔のおじいさん。
「ソーマさんの、下の息子さんが会いに来たんだよ」
「……誰だって?」
寝台近くに寄ったペレーグを見上げて、老人は小首をかしげ怪訝そうな顔をした。
げっそりと肉が落ち、骨のかたちが浮き出て見える頭には、しかしまだ短い金髪が残っている。八十代と言われても信じられそうな外見の男性の、実年齢を語る部分だった。彼は本当は、もっとずっと若いはずなのに。
「息子さんのヒヴァラが来たんだよ」
扉の手前で動けなくなってしまっているヒヴァラを、ペレーグは振り返った。
「わかるよね。きみのおやじさんだ」
ペレーグはそれだけ言うと、手招きをしてヒヴァラを老人のもとに寄せ、自分はついっと下がって扉のすぐ前にたたずむ。
アイーズは恐れおののきつつも、さくら杖を握りしめたままヒヴァラのすぐ後ろに続いた。
――どういうこと。こんなにあっさり、ファートリ老侯に会わせるだなんて……?!
アイーズは一度、きッとペレーグの方を見た。しかし中年男は腕組みをしたまま扉に寄りかかって立ち、ひたすら哀しげな表情で無言を保っている。
「……とうさん?」
低い、しかしはっきりと大きな声で、ヒヴァラが問う。
問うと言うより確かめだった。ヒヴァラはもう確信しているのだ、とアイーズにはわかる。
「初めまして。私はソルマーゴ・ナ・ファートリです。ここではソーマと短く呼ばれているけれど」
いかにも文官、といったしかつめらしい正イリー語にて、ファートリ老侯はヒヴァラに答えた。
「俺だよ、……ヒヴァラだよ」
「ヒヴァラ、……」
寝台の脇にしゃがみこんだヒヴァラの顔を、じッと見てファートリ老侯は目を細めた。
「奇遇だね。私は子どもができたら、ぜひその名をつけたいとずっと思っていたんだ」
「……えっ?」
「昔からずっと気に入っていた物語の、登場人物の名前なんだよ。君のような若い人は知らないかな? 『常緑の森』を」
「……」
「そのことを話したら、私の母親はまぁ怒って怒って。第一子には、何がどうでも父に倣ってグシキとつけにゃならんから。どうしてもつけたいのなら、二人こどもをこしらえなさいと怒られたもんだ。結局、子どもは一人も得られなかったがね」
時々かすれのまじる声で、ファートリ老侯は言った。
「だから君のお父上がうらやましいよ。たぶんお父さんも、私と同じ考えでもって、君にヒヴァラと名付けたんだろうからね」
「とうさん。……俺はとうさんの子の、ヒヴァラだよ……?」
ぐっと顔を近づけて、ヒヴァラは父に言う。声がふるえていた。
「だいぶ変わっちゃったから、わかりにくいだろうけど、……」
「ヒヴァラ君。きみは誰かと勘違いしているよ。私は長らく、ファダンで文官として勤めていたのだけど」
ファートリ老侯は、硬筆を布で拭いて、台の上に置いた。両手を使って、弱々しく墨壺のふたを閉める。
「……ティルムン語から正イリー語への翻訳をしていたんだ。おそらくはその関係なんだろうね、私はある時ティルムンへ赴いたらしくて」
――赴いたらしくて?
アイーズは気づいた。ファートリ老侯の声はかすれているが、言葉ははっきりとした意思により組み立てられている。それなのに内容だけが、大きな違和感を含んでいた。自分のことなのに、誰か他人ごとについて話しているかのような話し方である。
――まさか。……まさか、ファートリ老侯!!
アイーズの胸に、不安が満ちた。




