ヒヴァラの髪が、燃えてるわ~!?
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その晩アイーズの父と兄ヤンシーは、いつもより厳重に家の戸締りを確認した。
ここはファダン北町にある住宅地。商家でにぎわう下町界隈に隣接しているが治安は悪くない。ご近所さんとの警戒の連携もある。
しかしプクシュマー郷の近くでヒヴァラを襲ってきたのが、その辺のちんぴら以上の手練れである可能性を考え、バンダイン老侯は狭い庭を囲む垣根にもじっと視線を向けた。
アイーズは、外に出ていた赤犬ルーアを家の中へ呼び戻す。
「頼りにしてるからね? 何か変な気配があったら、皆を起こすのよ」
玄関脇の犬かごにおさまったルーアを、アイーズは小さな手でなでた。
おさげのようなたれ耳をふさふさっと振って、赤毛の犬は鼻を鳴らす。こころえたもん。
「アイーズぅぅぅ! 俺ぁ洗い場、終わったかんなぁぁぁ!?」
「はーい」
上階でがなっている兄ヤンシーに応えた時、そろそろアイーズもくたびれ最高潮を感じた。
昨日に続いて、今日もずいぶん色々あった。お湯を使って寝てしまおうか、と薄暗い廊下を歩きかける。
ふと、半開きになった居間の扉から、妙に明るい光が漏れているのに気付いた。
――あらら? 何か灯りを消し忘れたかしら?
アイーズが居間に入ると、その明るさはふッと弱まる。
「どうかしたの??」
先に洗い場を使って、もう客室で寝てしまったと思っていたヒヴァラが、卓子の隅で腰かけに座っていた。
立ち上がり振り返る顔がなぜか、ぎくりとしたような表情である。
「あ……アイーズ。ちょっとね、……この書類、ながめてたんだ」
ヒヴァラはアイーズの兄のどれかが使っていた、古いねまきを着ている……ぶっかぶかだ。
その両手には、あの西町実家で見つかったティルムン語の筆記布束がある。
「そのう。アイーズにばっかり、がんばってもらうのがすまなくって」
アイーズは丸顔をたてに振った。
「何かあった? 新発見」
「ティルムン語よめないから、内容じゃないんだ。ただ……」
「なあに?」
尻つぼみになるようなヒヴァラの言葉を、アイーズは励ましたくて低くうながす。
「ぜんぶ、墨がおんなしだ、と思って」
アイーズは、ばしばしと瞬きをした。
「これ、北部穀倉地帯の農家とかが書いたはずなんでしょ? むこうって、読み書きできる人がずっと少ないし、書くのに使う道具なんかもイリーとはだいぶ違うはずなんだ。墨つくる草とか実の種類のせいで、書いた字も別の色に見えると思うんだけど……」
ヒヴァラはティルムン語書類の一枚と、アイーズが覚え書きをしていた布片一枚とを手に持って、卓子の上の蜜蝋手燭に近づける。
「でも見つかった書類は、ぜんぶここで使われてる墨とおんなし色に見える。ナーラッハおじさんが書いてたのとか、アイーズが書くものと変わらないんだ」
アイーズはぐっと屈んで、二枚の筆記布を凝視した。
「……わからないわね。もっと明るくしないと、わたしにはどっちとも言えないわ。ぱっと見は同じなんだけど」
「あ……、ああ。そっか、そうだよね」
「沙漠の中に住んでいる人って、他のところの人より目が良いんだって聞いたことあるわ。たぶんヒヴァラは、わたしよりもずっと夜目がきいて、こまかい色みも見分けられるんじゃないの?」
アイーズの見上げる先、ヒヴァラの顔が困ったような照れたような、微妙な表情になった。
「明日、陽の光の下で一緒に見てみましょうよ」
「……うん」
それで二人は居間を出る。
蜜蝋の灯りを吹き消した時、さっき一瞬みえた不思議な明るさが、アイーズの脳裏によみがえった。
「お休み、アイーズ」
「また明日ね。ヒヴァラ」
ぎっしぎっし、と薄暗い階段をのぼりつつ、アイーズはふあんふあんと頭を振る。
先ほど居間に入りかけて、アイーズは見ていた。
書類布の束を前に、卓子の隅に腰かけていたヒヴァラの後ろ姿。
そのヒヴァラの周りだけが、冬の夜の暖炉みたいに煌々と明るかった。
光源は一つではない。卓子の上の蜜蝋灯りよりもはるかに明るいもの、……みじかく切ったヒヴァラの髪が炎みたいに輝いて、彼の手元の筆記布をあかるく照らしていたのである。
ごく一瞬だけ目に入ったその光景は、ヒヴァラがアイーズの視線に気づくとともに消えてしまった。小さな手燭ひとつの明るさだけを残して。
――変ねぇ。昨日の炎のまぼろしと言い、さっきの明るさといい……。わたしも相当に疲れてるんだわ。もう、さっさと寝ちゃおうっと!