……砂嵐にかこまれて、空虚をうたがった話
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結局その日、アイーズとヒヴァラは国境を越えられなかった。
午後なかばから西風が強くなり、ミハール駒が疲れたそぶりを見せ始めたからだ。屈強なるこの黒馬にだって、苦手なものはある。御しているアイーズとヒヴァラも、少々しんどくなっていた。
「大事をとるに越したことはないわ! 今日はもうここで進み止めッ」
アイーズはびしっと言ったものの、ほぼ国境まぎわの辺境である。テルポシエ側で最後の宿場町は越してしまったし、それまで道沿いに散在していた集落もなくなっていた。はなから野宿と決め込んでいた二人は、さっさと東に向けて北方準街道をそれる。
「あっ! 廃屋はっけんッ」
ヒヴァラが見つけて叫ぶ。
ひとつ二つ、こんもり茂った小さな森を過ぎ越したところに、崩れかけた石組み基盤が白くかたまっていた。
「廃屋っていうか、廃村ね」
井戸は見当たらなかったが、かつて公共の水汲み場だったらしい岩場の湧水があった。恰好の野営地である。
暗くならないうちにミハール駒の世話を済まし、水を確保して二人は草編み天幕内におさまった。
廃屋の壁と楡の木の間にヒヴァラが張った草の繭は、強風にも揺れない。それでも外を吹きすさぶ西風が、樹々の梢をざわめかせる音が遠く響いて来る。
「……ちょっと怖い感じね!」
テルポシエ大市内で調達してあったぱん他いろいろを食べ、草ゆのみのお湯をすすって、アイーズは言った。
「うん。でも砂嵐より、ずっとましだ。いじわるな感じがしないんだから」
草天幕の床にあぐらをかいて座り、あかあかと髪を輝かせているヒヴァラをアイーズは見た。
「砂嵐? ……訳したティルムン物語本の中にも、よく出て来たわ。実際にはどんな感じなの? 砂の嵐って」
「とんでもないよ」
とたん、しかめっ面になってヒヴァラは頭を振る。
「風と一緒に、砂がじゃんじゃんざかざか吹きつけてくるんだ。体じゅうひっぱたかれるみたいに痛いし、目も開けてらんないんだよ。来るとわかったら、大急ぎで水を汲んで、作物に囲いをつけて……。あとは何時間も、うちの中にこもってないといけない」
『ティルムン大市にはなー、わりとしょっちゅう砂嵐が来んねん。みんな慣れとるな』
『ほうほう……!』
アイーズの傍らにふせているティーナ犬がもそもそと言い、ヒヴァラの肩先に座っていたカハズ侯が感心したような声を出した。
――水滴のかわりに、砂粒が叩きつけられる嵐だなんて!?
アイーズにとっては摩訶不思議な現象である。しかしヒヴァラの言い方を聞いて、経験したことがなくてむしろ幸せなのだ、ということはよくわかった。
「でも一番いやだったのは、砂嵐の音かな」
「嵐のうなり声?」
「そう。ざざざあーっっ、って砂入り風の吹きあれる音に長いあいだ囲まれてると、耳がおかしくなるんだ。気持ちもおかしくなってくる」
ヒヴァラの顔が、しかめっ面でなくなった。眉間のしわが取れてすべっとしたが、小さな瞳がふっと虚ろになる。アイーズを見ているはずなのに、そうでないような。
「……実際のところは、俺は沙漠のまん中に、ひとりっきりでいるんじゃないのか。今まで見たもの、あったと思っていたものは全部うそで、本当はこの世に砂しか吹いてないんじゃないか、って気になるんだ。ファダンに住んでたのも、アイーズと一緒だったのも、実はぜんぶ夢で……。俺がそう信じてただけなのかも、って」
低いヒヴァラの声をかき消すように、外で風が吹いた。
ごうごう……。
――そんなわけない。そんなことない。わたし達は確かにファダンで一緒だったし、今もここに一緒にいるのよ??
アイーズは叫びたくなった。そんな悲しいこと言わないで、と思う。
……しかし悲しみごとヒヴァラを抱きしめることは出来なくて、アイーズはひたすらその空虚のほとりに立ち尽くす。唇をきゅっと結んで寂しげなヒヴァラの横顔を見ているうちに、アイーズは自分の役割がわかった気がした。
アイーズは、……のぞきこまなくてはならないのだ。ヒヴァラの深淵を。
どこまで深いのかは知れなくても、そこへ一緒に落ち込むことなく足を踏ん張って。そうして命綱のように、ヒヴァラの手を放さずにいなければならない。
だからアイーズはアイーズらしく、肩をすくめてふふん! と鼻を鳴らした。
「砂嵐ごときに吹っ飛ばされるような、アイーズ・ニ・バンダインじゃないわよ!」




