赤いふさふさ! 猟犬ルーアちゃん降臨よ
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ヒヴァラの両脚に、小弓の矢が深く刺さっていたのをアイーズは確かに見ていた。
鏃を乱暴に引っこ抜いたりして、ただで済むはずがない。
それなのにヒヴァラは、しばらくすると立ち上がり歩きだしてしまう。
「ちょっと! だめよヒヴァラ、こんなひどい傷で歩いたりしちゃあ……」
「大丈夫なんだアイーズ、……ごめんよ。本当にごめん」
ふらふらとした足取りで、ヒヴァラは田舎道を歩き始める。
けれどヒヴァラは今、アイーズがやってきた方向ではなくって、彼女が帰る先へと向かっているのだ。要するに真逆である。
さっきはどこへ行くつもりだったのか……。いや、もう方向すらわかっていないのではないか。
「もう俺のことは、ほっといてくれていいんだ……。会えてうれしかったよ、アイーズ」
「って、あのねぇー! ヒヴァラ!」
よろよろふらふら、すねたようなふてくされたようなヒヴァラの態度に、むしろアイーズはあきれ返る。こんな状態で、放っておけるわけがないでしょ!?
からからから……。
……と。驢馬に引かせた荷車が近づいてくる。天の助け!
農家さんの荷馬車は手狭だったけど、アイーズは何とかそこにヒヴァラと自分を押し込む。プクシュマー郷まで、二人は帰りつくことができた。
・ ・ ・
アイーズの現住居(仮)は、その小さなプクシュマーの集落はずれ、森の間際にある。
「ほらそこよ、もうひと息だからね!」
「……」
アイーズのさくら杖を借りて、ヒヴァラはすでにひ~ふ~と切なげに呼吸しかしない。アイーズはそんなよれよれのヒヴァラを助け、小屋の前の石段をのぼらせた。扉を開ける。
が・ばっっっ!
「ひゃーんっっ!?」
いきなり戸口内側から飛び出してきた赤いふさふさのかたまりに、大の男たるヒヴァラは情けない叫びをあげてのけぞり、こけかけた。
「う・おっとーぉ!! ルーアちゃん、だめよ! これはわたしのお友達よッ」
ひょろんとしたヒヴァラを背中から左肩でがしりと支えて、アイーズは右手で赤犬の頭にふれる。
まふッ。
なーんだ、と言いたげな様子で鼻を鳴らすと、ルーアはふさっと跳びかかりかけた前脚を下ろした。豊かな赤毛で全身を覆われた、大型狩猟犬である。
「いい子ね、ルーアちゃん。……さあ入って、ヒヴァラ」
「……」
ふんふん、とまとわりつくように客の身体を嗅ぎまわる赤犬に、ヒヴァラは明らかにおびえていた。自分よりだいぶ小さいアイーズに、びとっとくっつくようにして、こわごわと小屋の中に足を踏み入れる。
小さな居間、火の気のない暖炉の前の長椅子に、アイーズはヒヴァラを座らせた。
「さあヒヴァラ、もう一回傷口を見せて。ざっと洗ったら、村の薬師さんを呼びに行くわ」
「……あ、いや……いいんだ、要らないよ」
「そんなわけないでしょうッ、もう」
台所から水差しと消毒酒のびんを取ってきて、アイーズはともかくヒヴァラに股引すそをたくし上げさせた。
「……あら??」
たくし上げた股引の下。左のふくらはぎと右腿裏の膝上あたり、鏃が深く刺さっていたはずの傷が……消えている。
暮れてゆく晩春の夕方、薄暗い室内でアイーズは目をこらした。
乾いた血の跡はある。しかしその中心でぱっくり開いていたはずの傷口が、うすいかさぶたになっていた。
「……俺、傷の治りが早いんだ」
疲れた声を絞り出すように、ヒヴァラがつぶやく。
いくら治りが早いからと言って、一刻かそこいらで傷が消えてしまうはずがない。しかしない傷はないのだから、アイーズは怪訝に首をひねるしかできなかった。
とにかく傷のまわりの血痕をきれいに洗い、酒をしみ込ませた綿でかさぶたをそっと拭う。アイーズが包帯を巻き終わると、ヒヴァラは消え入るような調子でたずねた。
「ありがと。……ここで横になっても、いい? すごく眠いんだ」
「え、ええ……」
祖父の使っていた古い軍用毛布をアイーズが納戸から出してくると、ヒヴァラはすでに眠り始めていた。
外套をかき合わせるようにして丸まり、長椅子にあわせて身体をちぢめている。足もとには脱いだ長靴がそろえられていた。
寝顔まで、なんだか哀しそうに見える。
ヒヴァラの長い身体に毛布をかぶせてやりながら、アイーズは考えた。
――これは確かに、わたしの知っているヒヴァラ君だわ。けれどこんなにみすぼらしい姿で、変なやつらに追われていたなんて……。いったい、君に何があったの?
「ふあー」
泥のように眠る男を見ていたら、アイーズもあくびが出た。
そう言えば昨夜は翻訳の仕事を仕上げるために、徹夜……にほど近い半徹だったのだ。
――ヒヴァラを起こさないよう、わたしも台所でぱん食べて……寝ちゃおうかなぁ? 今日はもう。
赤犬ルーアが、すりっと身体を寄せてくる。
「……静かにね、ルーア。やさしくしてあげてちょうだい。ヒヴァラは、わたしの大事なお友達なのよ」
そうっとささやくと、賢い生きものは小首をかしげた。
ふさふさした長いたれ耳が、女の子のおさげみたいに揺れる。
アイーズは音をたてないように注意して、二つの窓に鎧戸板をはめこんだ。大きな毛深い同居者をしたがえて、アイーズはのしのし台所に向かう。
――そう、昔の仲良し友達と再会したってことよね。びっくり……。しかもヒヴァラは、ややこしい問題を抱えているみたい。けれど今できることは何もないんだし……。とにかく回復してもらってから、詳しく話を聞こうじゃないの~?
細かいこと、および遠すぎる未来のことにあまり不安を持たない主義のアイーズである。
それより何より、アイーズ自身がずいぶんくたびれていた。
すべてを明日に丸投げして、あくびを噛みながら戸棚の中にルーアのえさを探しにゆく。……