≪治外法特権≫証書をもらえたわ!
ミルドレ・ナ・アリエ老侯のちりちり生乾き髪を見て、アイーズは驚いた。
テルポシエ宮廷で高い地位にあったのなら、アリエ老侯の頭髪は当然白金であるはずなのに。まるでちがう!
「は~い、書けました!」
のほほんと明るく言われて、アイーズはすぐにアリエ老侯の髪から、その手元にある書類へと視線を移す。
「は、はいっ」
「こちらがアイーズ・ニ・バンダイン嬢の≪治外法特権≫証書。そしてヒヴァラ・ナ・ディルト君の分ですねー」
触っただけで超高級品と知れる羊皮紙二枚を、アリエ老侯は二人の身分証とともに差し出した。
「言わずもがなのことですが、≪治外法特権≫について、おふたりに一応の説明をします。この証書はイリー諸国の外、それも北部穀倉地帯に限定して発効する公式書類です。ティルムンやキヴァン圏では、何の効力もありません」
「はい」
「そして、お二人のファダン市民証と併せてのみ有効となります。どちらかをなくすと無効になってしまうから、気をつけて保管・携帯してくださいね」
特権証作成のため、先ほど身分証を差し出した時、実はアイーズは一抹の不安を感じていた。
一線を退いたとはいえ、テルポシエ高官のアリエ老侯である。敵対国であるマグ・イーレの内情にも精通しているだろう。かの宮廷にて近衛騎士長をつとめるディルト侯と、ヒヴァラが同姓であることに引っかからないだろうか……? そう危ぶんだものの、アリエ老侯はすらすら注意点を述べるだけだった。
「有効期間はですね、明日から一応めいっぱいの五十日間としておきました。何かの危機に遭ったら、各地にあるイリー在外公館にただちに連絡してください。ただ、その一報が入った時点で有効期限が切れていると、公館も介入ができなくなっちゃうのですよ。そこのところ十分に気をつけて、ぜひ余裕のあるうちに帰ってきてくださいね!」
アイーズとヒヴァラは、アリエ老侯に心からの感謝を述べた。
「夜分お邪魔した上に、本当に親切にしていただいて。どうお礼をしたらいいのか」
「ほんとに、ありがとうございました。このご恩は忘れません」
おいとまを、と立ち上がる二人に、アリエ老侯はいいんですよと片手をひらつかせる。
「……ああ、お礼は欲しいです。お二人が北部へ行って、無事にイリー圏に帰ってこられたら、おたより一本もらえます? ……すごく心配していますからね。それで、安心できますでしょう?」
アリエ老侯は、ふいっと自分の横脇に向かって微笑したようだった。
今までも時々そうしていたから、この人特有のくせなのかしら、とアイーズは思う。
「ええ。必ず無事に帰って、お便りを差し上げます」
「約束ですよ~。それとこれは、ファダンへ持っておいでなさい。内に在所が書いてあるし、あなたのお兄さまに私の忘れ物を預かっていただいた方が、何かと都合がよろしいんですよ」
「はい」
白い布にくるまれた球をアイーズは受け取り、かばんにしまい込む。
アリエ老侯の言う都合の意味は分からなかったが、それはファダン中央宮廷所属のアンドールと、このテルポシエ高官の間の都合だ。なぜとは問わず、アイーズは素直にアリエ老侯の言葉に従う。
「それでは、道中気をつけて。どうぞお達者でね」
「さようなら、アリエ老侯」
アリエ老侯に見送られ、アイーズとヒヴァラは静かに玄関扉を閉めて外に出る。雨はふっつり止んでいた。
ヒヴァラが≪乾あらい≫の術をかけた後のように、外套は暖炉の熱を帯びている。アイーズがヒヴァラの外套ひじの中に手を差し込んだら、そこもほかほかしていた。
「……どこから跳ぼうか? アイーズ」
高ーいところから、そっと問うてくるヒヴァラの声も、なんだか温かい。
「もうちょっと先ね。いまは歩きましょう、ヒヴァラ」
・ ・ ・ ・ ・
厚く重い玄関扉を閉め、そこにかたく錠を下ろし直してから、ミルドレ・ナ・アリエ老侯はうーんと腰を伸ばした。
ふい、と右横を振り返る。
玄関脇の角小卓に置いた、蜜蝋灯りひとつが照らす廊下。そこには柔らかな薄闇があるだけ、……はた目には空っぽである。
「これで良かったのですよね?」
『うん。どうもありがとう、ミルドレ』
ばさり……!
いいや。薄闇の中には、女がいた。
猛禽のようなたくましい翼一対を背負った、若い女である。老騎士だけに見えて聞こえるその女は、にっこりと笑ってミルドレを見上げた……。




