ミルドレ・ナ・アリエ老侯を訪ねて!
・ ・ ・ ・ ・
たーん、……ぱしゃッ!
またひとつ、屋根の上を跳んで着地したヒヴァラの足もとに、瓦にたまっていた水が小さくはねた。
赫く輝く髪が外から見えないよう、深めにかぶった頭巾の上から、アイーズは両腕でヒヴァラの首につかまっている。
たーん……!
アイーズはぐうっとお腹に力をこめた。馬で障壁を跳び越すときの比ではない。≪早駆け≫を使い、ものすごい速さでテルポシエ街中の屋根屋根を跳んでゆくヒヴァラの背中では、そうして力を入れていないと目が回りそうなのだ。
――なによー!! こんなもーん!!
ヒヴァラの首に背中にしがみついて、アイーズは気合を入れている。
――この後、わたし達はさらなる冒険に出なきゃならないのよッ。高いところの速い移動で目を回してるんじゃ、話にならないわ! がんばれアイーズ・ニ・バンダイン! わたしならできるッ!!
さっき、酒商でおいしい鍋を食べておいて本当に良かった、とアイーズは思っている。あの元気の出る煮込みを食べていなかったら、今頃はくじけていたかもしれない。
北部穀倉地帯で有効な≪治外法特権≫を求めて、テルポシエの高官アリエ老侯の邸宅を訪れると決めたアイーズ達だったが、宿の女将さんの言葉を思い出してもいた。いまや外は危険ばかり……!
どうやらここテルポシエにも、マグ・イーレの追手が入り込んでいるらしい。ヒヴァラを手中に取り戻そうと画策している伯父、ディルト侯の配下に違いないと思われる。彼らの目につかないようにするには、ヒヴァラの理術≪かくれみの≫を使うのが有効だとアイーズは考えた。ところが、ヒヴァラ自身が異論を唱えたのである。
「ちゃちゃっと≪早駆け≫で行っちゃおうよ! 高いところを見張っているやつは、まさかいないだろうしさ」
「そ、それはそうなんだけど……」
「しかもアリエ侯って、おじいさんなんでしょ? 歩いて行って遅く着いて、もう寝ちゃってたら残念じゃない」
……と言うわけでアイーズを背負い、宿屋の客室窓から、ヒヴァラはひょいと外に出てしまったのである。
「お城を右手に、ずーっと行けば南区につく……はず!」
びゅんびゅん、ぎゅんぎゅん、ヒヴァラはものすごい勢いで石造りの家々の屋根を蹴ってゆく。
はたから見れば軽々としているのだろうが、雨風の圧をもろに受けまくっているアイーズは、自分がねこだの蝶々だのになっている気分にはなれなかった。
『おや。あれは海側の市壁ですね! 周りは壮麗なお屋敷ばかりになってきたし、ここが港区なのでは?』
ふよふよした雲のようになって、アイーズの肩まわりを支えてくれているカハズ侯が言った。それを聞いたヒヴァラはそろり、と跳躍の幅をせばめる。ぷは~、と安堵する思いでアイーズは言った、……精いっぱいの貫禄をこめて!
「それじゃこの辺で道に降りて、あなご通りの三一七番地を探しましょう! ヒヴァラ」
「ようし」
いかにもお高級な住宅地だ。海側奥の通りから順に見て行こうと、アイーズを背負ったヒヴァラは地面にふわりと降りる。
暗い中を見渡せば、どこの家も通りと番地名をはっきり表札に掲げている。目的の家を探し出すのも難儀ではなかろう、とアイーズは思ったのだが。
「……あら、ここがあなご通りなんじゃない。狙って降りたの? ヒヴァラ」
「まさか。まぐれだよ」
三一七番地はその奥まった通りの中でも、さらにだいぶ奥へ入った場所にあった。だいぶ外套を濡らした二人の前に、古い屋敷がそびえている。
大きくてどっしりとした、数階建ての構え……。しかし固く締められた窓の鎧戸から、もれ出てくる光の線はなかった。いやな予感がする。
――まだ夕の九つ前だけど……。本当に寝ちゃってる??
ともかくアイーズは扉の前に立った。都会の邸宅のこと、前庭はなくて路から石階段を数段上がれば、もう玄関口である。
重く冷たい呼び具を握って、たん・たたん……。アイーズは、はっきりした音を響かせた。
沈黙。
もう一度叩いてみたが、扉の向こうに人の気配は感じられない。
「……家ん中、灯りも入っていないみたいだし。留守なのかな……」
低い声でヒヴァラがつぶやいた。
『けれど、アリエ侯というのはテルポシエ高官なのでしょう? これだけ大きなお屋敷なのだし、ご家族や使用人の方がいそうなものですが……』
ヒヴァラの襟元あたりで、小さくなったカハズ侯がけろけろ囁いている。アイーズは振り返って、肩をすくめた。
「残念、むだ足になっちゃったわ。また明日の朝、来てみましょう」
アイーズはあきらめてはいなかった。
自分たちにはアリエ侯の助けが必要なのだし、何とかして治外法特権を入手するまでは粘るしかない、と思う。
――今回ばかりは、自分で幸運をつかみに行くしかないわ。でも大丈夫、そもそもがヒヴァラに再会できたついてるわたしなんだもの。動いていれば、運は向いて来るわよ!
そうして石段を下りかけた時。
ぎいっ、とゆっくり扉の開く音がして、アイーズとヒヴァラは振り返った。
「いやー、どうもお待たせしました。福ある夜を~?」
「福ある夜を……」
反射的に挨拶を返した、アイーズとヒヴァラの視線の先。
頭に布をぐるぐる巻いた妙なおじさんが扉から半身を出し、手燭を持ってのほほんと笑っている。




