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ディルト侯の追手が迫ってきたの!?

・ ・ ・ ・ ・



 酒商≪みつばち≫を出ると、さっと冷たい飛沫がアイーズの頬にかかった。



「あらら。降ってきちゃうのかしら」


「帰ろう」



 下町夜道は真っ暗闇ではない。立ち並ぶ商家の窓枠や扉を通してふんだんにあかりがもれ出ているし、軒下に吊り燭台をさげている建物も多かった。足もと不用心、ではない。


 けれどアイーズは、ごく自然にヒヴァラが伸ばし触れてきた手をしっかり握った。


 そうして東区の宿をめざす。しぶきのようだった雨が、ぽたぽたと滴になってゆく。本降りになる寸前、二人は小さな宿の扉をくぐった。



福ある夜をこんばんは――あらぁっっ!」


「こんばんは、女将さん」



 アイーズとヒヴァラが、二重唱で挨拶をしかけたその時。


 顔見知りの女将の婆さんは、すばやくあたりに視線を走らせると、二人を裏戸の奥へ招き寄せる。



「こっちへ!」


「えっと……あのう? 予約をしておいたはず、なんですけど??」



 手巾で顔と髪をぬぐいながら、アイーズは言う。何だか女将さんの様子がおかしい。


 裏戸をくぐったところは宿の事務所、備品庫を兼ねているらしかった。客用ねまきや敷布のたぐいが、棚にぎっちり詰まっている。


 かたん。手燭片手に、女将さんは戸をきっちり閉めた。



「孫からあなた方の予約をもらったって聞いてね、待っていたのよ。……追われているのでしょう、お二人さん?」


「……!!」



 ふくよかまる顔をぴしッと凍らせ、アイーズは言葉に詰まった。


 ヒヴァラは外套頭巾を後ろに落としかけていたのだが、その手を止める。



「昨日の夕方おそく、二人連れの男性がうちに来てね? 駆け落ちした若い男女を探している、って。言われた特徴があなた方にそっくりだったから、びっくりしちゃって……。もちろん、知らないと言っておきましたけど」



 アイーズとヒヴァラは、顔を見合わせた。



「その人たちはすぐに出て行ってしまったし、後は見ていません。あたしが受付台にいますからね、この宿にいる限りめったなことはさせませんよ。今夜は安心してお休みなさい」



 女将さんはまじめだった。前回泊まった時同様、アイーズたちを孫扱いしてくれているらしい。そういう真摯さに応えたくて、アイーズは言う。



「女将さん。理由があって追われているのは本当なんですけど、わたし達は駆け落ちじゃないんです。家族にもちゃんと連絡していますし、その人たちが言っていることこそ、嘘っぱちなんです」


「ええ、わかっていますよ。……はい、お嬢さんにお便りが来ていましたから」



 女将さんは事務机の上の木箱を開けて、通信布の布巻き便りを二つ、アイーズに差し出す。ファダンの母と、浜域義姉からの便りだった。



「出立時までは、あたしが責任もってお二人の安全を保障します。……けれどその後は、ほんとに気をつけて行くのよ」



 低い声で言い切った女将さんに丁寧にお礼を言って、アイーズとヒヴァラはへやに行った。前回と同様、小さな炉のある客室である。


 火の入った暖炉の前にたたずんで、二人は少し濡れた外套も脱がずにいた。



『……テルポシエに入市した後もそうでしたけれど。この界隈で、とくに不審な感じの人は見当たりませんでした。何かを聞いて回ったり、聞き耳を立てているようなやからはいません』



 ふいっと炉の炎を揺らめかして、怪奇かえる男の姿をとったカハズ侯が言った。風のように宙を歩いて、外を一回りしてきてくれたのである。



「ありがとう、かえるさん。俺も今≪じごく耳≫の術使っているんだけど……。変な声や音は、耳に入ってこないね」



 髪をうっすらあかく輝かせるヒヴァラの足元に、すいと赤犬ティーナが現れる。



『……マグ・イーレのやつら、とうとうテルポシエにまで来よったんかいな?』



 答えるまでもない。アイーズもヒヴァラも理解していた。


 ヒヴァラを追って、ついにディルト侯の配下が二人に迫ってきたのである……!!



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