ここでも大ヒット! ≪みつ蜂≫名物、牛にんじん鍋
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「あっ、あの看板! ≪みつ蜂≫ってかいてあるッ」
「え、本当? さすがヒヴァラね、鼻でかぎあてたの?」
「いや、なんとなく見たら目に入って……」
おいしいもの探しにヒヴァラは、視覚嗅覚どころか第六感も行使しているのであろうか。
乾物屋≪紅てがら≫から、そう遠くはないが少々複雑に奥まったところ。アイーズとヒヴァラはようやく、宿屋の娘のおすすめ酒商を見つけ出した。
厚い扉を押して入ってみれば、なるほど立ち飲み客のむこうで家族連れが卓子席を埋めている。おいしい匂いが充満した室内で、老若男女が談笑しながら夕食を楽しんでいた。安心できる風景である。
「おふたり? ごめんね、いま卓子席はいっぱいなの! 長台でもいいですか?」
きっぷの良さそうな給仕女性に案内されて、勘定長台の隅っこに二人はひょろ・のしーんと座った。
「へい、本日の鍋。おまちー」
台の向こう側にいる熊みたいな大将が、両手に持った鉢皿を二人の前に置く。
大将のでかい手との比較で、皿は一瞬小ぶりに見えた。しかし実際にはアイーズのまる顔より広口、深いどんぶりである!
真っ赤な汁の中で香気を放っているのは、ごっそり盛られたにんじんと角切りの濃色肉……牛肉だ。
「……」
さっそく木匙で口に運んで、アイーズとヒヴァラは押し黙る。
ヒヴァラの鉢皿ふちからちょっとすすった小さなカハズ侯も、無言だ。
そうっと現れてアイーズの膝に前脚をかけたティーナの口に、アイーズは木匙いっぱい含ませてやる。
「……やばくないかい。これ」
恐々とした様子で、ようやくヒヴァラが言った。
「ぱんをいっぱいもらわないと……俺、これ際限なく食べそうなんだけど」
やぎのような小さな瞳が、感動に潤んでいた。それほどにうまい、美味すぎる牛肉とにんじんの煮込みなのだ。
「お代わりするのよ、ヒヴァラ。ここで遠慮したら、あとで絶対に後悔するからね」
「うん……!」
アイーズも口いっぱいに含んで、噛む。とろける寸前の甘いにんじん。歯に触れてほぐれるたびに、じわりと滋味ある肉汁があふれ出す牛肉……。
香味酸味の絶妙にからまりあった汁は、干した赤宝実が基本なのだろうが、他が何なのかアイーズには判別がつかなかった。
実はアイーズは、そんなに牛の肉が好きではない。主に乳をもらうもの、というとらえ方は多くのイリー人が持っているものだ。じっさい、他の肉……豚や鶏やうさぎ、羊にくらべてイリー社会では出回る量が多くないし、ややかたい。加えてアイーズは、独特のくせを敬遠しがちだった。それなのに。
――こんなに優しい味だったんだわ……べこ、再発見ッ!!
ぱらぱら早芹菜の生葉を散らした赤い鍋ものには、どこまでも深いこくと滋味とがつまっていた。ごくりと汁を飲んで、アイーズはぽーッと胸の奥が熱くなるのを感じる。
「お兄ちゃん、気に入ってくれたかえ」
長台で飲み客用に泡酒の杯をこしらえている、熊大将の巨体をするッとよけて、こぐまのようながっしりした婆さんがヒヴァラの前に立つ。
「はい。めちゃくちゃおいしいです」
「うふふ。三回お代わりしてくれる子は、さすがに珍しいやね。朝から煮込んだかいがあったよ!」
婆さんはゆっくり、ヒヴァラの前にお代わり分の鉢皿を置いた。
「≪みつ蜂≫名物の牛にんじん鍋だよー。あたしの十八番で、しょっちゅう出してるんだ。良かったらまた、寄っておくれな」
若草色の割烹着と、おそろいの手巾できりっと頭を覆ったこぐま婆さんは、二人に笑顔を向けた。
「おっかさん、お鍋みっつー」
「はいよ~」
大将そっくりのお婆さんは、お嫁さんとおぼしき給仕女性にこたえて裏の戸口をくぐってゆく。そこが厨房なのだろう。
夢中でたべるヒヴァラの日灼けた横顔も、頬があかく染まっていた。アイーズの目には、心底うれしそうに見える。
――あの、五つ沼の球技補佐のおばさんは。食べ物から得られるのは、身体の熱だと言っていたけど……。
深い鉢皿を持ち上げて、アイーズはごくっと汁を飲んだ。
――このお鍋は、何だか元気の出る味がするわ。ヒヴァラの心にも、熱が届くと良いんだけどなぁ……。
理屈ではうまく言い表せない。
けれどにぎやかな酒商の日替わり鍋は、アイーズの心にたしかな温かさ、小さな希望に育つものをもたらすおいしさだった。




