今夜はテルポシエ下町へ繰り出すわよ♪
「俺はこれから北へ帰るところなんだ。ぎりぎり直前であんたらに会えて、ほんと助かった……じゃあね」
北部人の男性はそう言うと帽子をかぶり、東門の方へ立ち去って行った。
それを見送ってから、二人は改めて公共厩舎の方へ足を向ける。アイーズはヒヴァラを見上げ、肩をすくめた。
「妙なところで求人相談されたものね。びっくりしたわ」
「……こういうことって、よくあるもんなの?」
ミハール駒の手綱を引きひき、ヒヴァラが低く問うてきた。
「ええ、仕事自体はあると思うわよ。特に納入量が多かったり、おさめ先がたくさんあるような大農家だったら、自分のうちで専任の翻訳士を雇っちゃうのかも」
「アイーズ、興味あるの?」
「ないわね。仮にわたしが本当の駆け出しで、明日のぱんやお家賃にも困るような状況だったら。そういうところへいっちょう出稼ぎに、って行く気になるかもしれないけど……」
実際にはそうではない。オウゼ書房と契約しているし、追い出される恐れなしに住めるところがあり、明日以降たべる予定の黒ぱんがヒヴァラの背負う麻袋に入っている。
だからアイーズは男性に手渡された布巻きを、ふくろ股引のかくしにひょいとしまった。
「それに、北部って言ったらイリーの圏外じゃないの。言葉も法律もまるで違うし、これといった後ろ盾なしに行くところじゃないと思うわ」
『たしかに、そうですね~!』
ヒヴァラの外套頭巾ふちから、カハズ侯がきょろッとアイーズに同意する。
「わたしみたいな一般イリー人が北部穀倉地帯に行くには、就労証明だとか通行許可の特別な書類が要るのよ。イリーの国々みたいに、身分証だけ見せてひょいと通過、ってわけにはいかないの」
「じゃあ、ますます関係ないとこだ……」
広い厩舎にミハール駒を入れ、ヒヴァラとアイーズはその世話をした。岬の集落で買ったにんじん束をもそもそ咀嚼して、巨大な黒馬はごきげんな様子である。
「また明日ね、ミハール駒」
市内壁をくぐり抜け、入市してすぐに見つけた配送業者の店に寄る。アイーズはファダン実家と長兄アンドール宅にあてて、簡単な便りをしたためた。
「おじさんやお兄さんたちの話も、聞けたらいいのにね。ファダンでうろついてたやつら、まだいるのかなぁ……」
「前に泊まった宿に、お便り来てるかもしれないわ」
東区と北区の境にある小さな宿をテルポシエ滞在の定宿にするつもりで、アイーズは前回分の便りにそこの在所を記しておいたのである。なにか大きな動きがあれば、母や兄たちが書き伝えてくれるだろう。
その宿に入ると、女将さんはいなくて十七・八のかわいい娘が受付台にいた。前回、食堂で給仕しているのを見かけた気がするから、女将さんの孫娘なのかもしれない。
寝台二本の室を予約だけして、アイーズとヒヴァラは夕食を食べに行くことにした。
女の子に界隈のおすすめを聞くと、北区へ入ったところにある酒商がいいと言う。
「えっ? お酒じゃなくて、わたし達ごはんを食べに行くのだけど……」
娘のおすすめがとんちんかんに思えて、アイーズは思わずはな声で主張してしまった。
イリー人は飲めない人が大半、アイーズも泡酒半杯以上はむりである。しかし宿の娘は、真面目な顔つきで答えた。
「はい。お酒の量り売りをしているんですけど、ごはん時はお食事を出してるところなんです。テルポシエらしい、おいしいお鍋が食べられますよ」
きゅッと肘をつかまれる。アイーズが見上げると、ヒヴァラがやぎ顔をきりっとさせていた。
「ぜひ、そこへ行ってみようッッ」
張り切って出かけた北区界隈は、人出があってにぎやかだ。仕事帰りに連れだってゆく職人風の人々、籠をさげてちょっと慌てぎみに夕食の買い物に向かう人。
生まれ育ったファダン北町に似通った雰囲気である。アイーズは気がせくどころか、逆に落ち着いた。
けれど下町ながらの特徴も共通していて、小路の組み方もやや複雑。宿の娘にすすめてもらった店は、なかなか見つからなかった。
「まあ、見つからないなら見つからないで。代わりに別のおいしそうなところへ入るんだから、問題まるでなしよ」
「そうだね! 出会える鍋に、出会おうッ」
と、二人はとある路地の一画に目を留めた。老舗らしい店に、お客がすいすい出入りしている。明るい玻璃の通し扉を透けてくる、灯りの温かさが美しかった。
「あそこ、何の店だろう」
「……のぞいてみる? 時間はたっぷりあるわよ」
ヒヴァラの肘の内側をきゅうっとつかんで、アイーズは言った。内心では、何かしらおいしい店だろうと確信している。ヒヴァラが興味を示すなら、それすなわち食べ物の店でありおいしいと期待できるから。
食い気に根ざしたヒヴァラの直感に、いまや信頼を置いているアイーズであった。




