VS野犬、絶体絶命の大ピンチよ!?
自分を狩ろうとしている巨大な犬……野犬を、満身の気合を込めてアイーズはにらみ返す。
――このまま間合いを詰めさせずに、岩場を回り込むのよ。向こう側のミハール駒のところまで行けば、切り抜けられるはず!
強靭な野犬あるいは狼であっても、巨大な雄馬に一対一で挑んでくることはまずないからだ。
じりじり、ざらざら……。
そうしてアイーズがあとちょっと、と思ったところだった。
ずざぁっっ!!
「えっ、うわぁぁぁぁっ」
右手の灌木、まったく予期していなかった方向から、出てきたものがある。強烈な体当たりを喰らって、またしてもアイーズは転んだ。びりびりっ、と脚に痛みが走る。
「いやっ、きゃああああ!?」
間合いを詰めてきた犬と全く同じ毛色、姿かたちの犬が……あらたに二匹!
そいつらがアイーズの左膝と右脛に、がっぷり食らいついているのだ!
起こした上半身めがけて、最初の一頭が飛び込んできた。
ぶうん!
アイーズが回したさくら杖を、その犬は軽々かわしてしまう。
「ヒヴァラ、」
あまりの恐怖恐慌に、声がしわがれて喉に貼りつくようだった。
「助けてー! ヒヴァラぁーっっっ」
ぶんっ! 返す杖が犬の鼻づらをかすめる。
がきぃっっ、とその端を口で食い止められて、とうとうアイーズはさくら杖を手放してしまった。
「ヒヴァラぁー!!!」
噛みとった杖を放り出した犬が、くあぁっとおどり込んできた。
他二匹に両脚を噛み抑えられて動けないアイーズは、こぶしを握った両腕で、顔と喉をかばうことしかできない。
アイーズの全身を光が突き抜けた――痛光だ。
するどい犬の牙が、アイーズの左手首すぐ下に深ぶかと差し込まれていた。
――食いちぎられるッ! 手ッッ!!
アイーズが歯を食いしばった、その時。
頭上がふいと暗くなる。
『し――ッ、しぃ――ッッッ』
アイーズがゆがめた双眸をふッと上にむけると、肩の上あたりに怪奇かえる男が見える。
かみつく犬にむかって、すさまじい形相で威嚇をしているのだ。突如現れたカハズ侯に驚いて、犬は嚙みついていたアイーズの手首から、くはッと口を離した。
するとアイーズの背後から、長ほそい腕がにゅうっとのびる。その先の手のひらが、犬の頭を荒々しくつかんだ。
ぶひゃ、ががががッ! あひーん!!
犬はおぞましい鳴き声を上げて前脚で宙を蹴る。うしろへがくん、とのけぞり返るようだった。
その筋ばった犬の身体が、ふっと赤くなる……。
ぼうッ!!
血のような赤さは、そのまま激しい炎となった。犬の身体の内から、外へと向かって噴き出してゆく。
ぎゃ、ひぃーっっっ!!
断末魔の響きが消える前に、犬は燃えさかる炎の中で黒焦げの骨となり、ぼろんと灰にくずれてしまう。
ひゃいいん!!
それを見て、アイーズの両脚に食らいついていた二頭が跳びすさった。
「今やヒヴァラ、残り二匹に火の玉ぶつけたれッ! ……うんッ、 いざ来たれ 群れなし天駆ける光の粒よ、高みより高みよりいざ集え――集い来たりて 我が敵を、薄闇の眷族を撃てッ」
アイーズを背中から抱え込みながら、ヒヴァラの早口詠唱が逃げかける犬たちに向かっていく。
瞬時、無数の火の玉が二人のまわりの宙に浮いた。
「――くだれ 火柱!」
それは犬たちそれぞれをめがけて群がってゆき、やがて集まり合って大きな炎の球となる。
炎は犬たちの全身をくるんで、その内包物を赤くほろぼしてしまった。
地面にへたり込んだままのアイーズの目には、熱と炎にくるしみ悶える犬たちの最後のもがきが見えた。次の瞬間、目の前いっぱいに心配そうなやぎ顔があらわれる。
「アイーズ」
「ヒヴァラ……」
力なく笑って、アイーズは左手を少しかかげて見せた。赤いものが流れ出ている。
「三か所かまれたわ。治療……してくれる?」
くらくら目まいのする中で、アイーズはうめくように言った。犬たちが、もし狂獣病にかかっていたら……!
「いざ来たれ 群れなし天駆ける光の粒よ、高みより高みよりいざ集え」
しゃがみこんでアイーズの上半身を抱え込んでいるヒヴァラの顔が、べそをかいてくしゃくしゃだった。白っぽい光が徐々に視界を満たしていき、アイーズは思わず目をつむる。閉じる直前、ヒヴァラの赫髪が燃え揺らめいた。
「集い来たりて 彼女が生命を、その癒しにて此処に押しとどめん。彼女が生命を、その天命のもとに押しとどめん」
どこまでもやさしい温もり、やわらかい風のようなものに手足を取り巻かれて、さすられる。
その感触がアイーズからふわりと離れた時、恐ろしい痛みはどこかへ去っていった。
深く息を吸い込み、吐きながらアイーズは目を開く。
何も言わずがくがくと震えているヒヴァラに支えられて、ゆっくり地べたに座り直し、足を引き寄せた。
「あ~あ……。ふくろ股引のすそ、やぶけちゃったわ。袖もぼろぼろ」
けれどその下にのぞく肌は、噛まれた部分が赤黒いかさぶたになっていた。手首のほうも、あざのような傷跡だけ。
二人の脇の地面に座り込み、おろおろと不安そうに手を揉みしだいていたカハズ侯は、深く息をついた。古風な革手袋の両手で、顔を覆っている。
「よかった。間一髪、危ないところに来てくれて……ありがとう。皆」
「アイーズ……」
髪を赫く輝かせてはいるが、これはヒヴァラだ。さっきはいりまじっていたけれど、今自分を支えているのはティーナじゃない、とアイーズにはわかっている。
「ほんと助かったわ、ヒヴァラ」
「……ちょっとだけ。ヤンシーお兄さんと同じこと、していいかい……」
かすれるような声で、ヒヴァラが言った。
「は? ヤンシー??」
小首をかしげかけたアイーズを、ヒヴァラはぎゅうううと抱きしめた。
ひょろい両腕いっぱいにアイーズをぎゅう抱きして、頭の横、ふかふか鳶色髪の中に顔を埋める。どことも確定できないあたりに、唇をくっつけていた。
アイーズは息ができない。鼻も口もヒヴァラの砂色外套生地にふさがれて、ひたすら自分の動悸がばくばく、頭の中に響く。
心の臓の鼓動に混じって、ヒヴァラの悲痛な泣き声が、これまでで一番近くに聞こえた。
「ごめん……ごめん、アイーズぅぅぅ。ごめんなさいぃぃぃ」




