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ヒヴァラが、……逃げちゃった!?

 

――ヒヴァラ、今でも怒っているのかしら……。どうやって話しかけよう。



 あそこまで落ちた機嫌は簡単には直っていないのだろうな、という不安がアイーズの豊かな胸の内によみがえってきていた。さらに首をもたげてきた空腹もある。何となく重い足を引きずって、アイーズは宿屋の玄関扉を押し開いた。



「あら、お帰りなさい。そろそろ連泊更新の時間だけど、今夜も泊まっていきなさる?」



 受付台で編み物をしていた女将さんが、気さくに聞いてきた。



「ええっと……。連れと、相談してきますね」



 ここの宿でもアイーズは、偽名を使って記帳していた。それがヒヴァラに対する罪悪感につながって、またしても胸が重くなる。



――誰にも迷惑かけてない、嘘なんだけどなぁ……!



 とぼとぼ階段を上がって、へやの扉を叩いた。



「わたしよ。開けて」



 答えが返ってこない。内側で物音もしなかった。



「……?」



 もう一度叩きかけて、もしやヒヴァラは熟睡してしまっているのだろうか、と思いとどまる。


 しかし次の瞬間、鍵穴あたりからカハズ侯の声がした。



『アイーズ嬢っっ!!』



 がちゃっと扉の取っ手を押せば、鍵はかかっていない。


 そして見回した狭い室内に、ヒヴァラの姿が――なかった。


 ふわっ、と怪奇かえる男の姿をとったカハズ侯の顔が、青ざめている。いつもの緑色でなくって、ほんとの蒼に近くなっていた。



『ああ、ああ! よかった、帰ってきてくれて……。わたくし、ここで待つしかできなかったものでっ』


「どうしたの!?」


『逃げちゃったんです。ヒヴァラ君』



 アイーズは口を開けた。……でも言葉なんか出てこない。



『いちど帰って、そこの小卓に鍵を置いて……。そのあと≪かくれみの≫の術をかけて、東門まで行っちゃったのですッ』



 公共厩舎の近くには、各地へ発つ乗り合い馬車の集合場所がある。そのうち一つの馬車に乗り込んで、ヒヴァラはテルポシエを出てしまった、というのだ!



『わたくしとティーナ御仁とで、さんざん引き留めたんです――でもヒヴァラ君、もう何にも話してくれなくって。ティーナ御仁が、自分はついてくしかないけれど、わたくしは宿に戻ってアイーズ嬢に伝えろと……』



 めまいを感じかけて、アイーズは目を閉じる。すぐに開けて、カハズ侯の揉みしだいている革手袋の手を握った。



「……馬車のたどった方向は、わかる?」


『ええ、東です。ずうっと先に行ったところにある、≪岬の集落≫へ行くという乗り合いでした』



 アイーズは笑った。かなり無理をしたが、ぐぐっと笑顔をつくる。



「それだけわかれば楽勝よ。さあ行きましょう、カハズ侯。ヒヴァラを追っかけるわ!」


『ええ、……ええ! アイーズ嬢』



 怪奇かえる男は、涙目を一度ばっちんと瞬いてから小さくなった。そのままアイーズの肩先、ふあんふあんのとび色巻き髪がかかるあたりに、ちょこんととまる。


 鍵を握りしめると、アイーズは小走りに階段を下りる。女将さんに連泊はなしと告げて、現金で支払いをした。ヤンシーが貸してくれたお金……。


 肩掛け革かばんの底に残っていた、ヤンシーの小腹空きー用黒梅を口に放り込んでがしがし噛みながら、アイーズは東市門の厩舎に向かう。ミハールごまを引き出して、ひょいと飛び乗った。


 小柄なアイーズが軍馬級の巨大な黒馬に乗っているのを見て、衛兵役のテルポシエ巡回騎士が眼を丸くしている。



――せっかく再会して、再開・・できたわたしと君なのに。



 アイーズは手綱を握り――東をにらんだ。かっかっかっぽ、ミハール駒は小気味よい蹄音をたてて進み始める。



――逃げちゃうなんて。そんな中途半端な結末、わたしは認めないわよ? ヒヴァラ!!



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