大手貿易商でも話を聞いてみましょう
テルポシエ東区、貿易業者の事務所が集まる≪ふじつぼ通り≫。
はじめに行き当たった≪ひらまさ貿易≫に、アイーズはまず入ってみる。
ここでもアイーズは同じ話を繰り返した。受付係に小口単発の翻訳仕事はないかとたずねてから、≪翻訳士ソルマーゴさん≫について話を向けたのである。
しかし≪ひらまさ貿易≫は、三年前に経営不振で一度倒産していた。現在の経営者は屋号ごと居抜きで買い取っただけなので、昔の話はわからないと言われる。
次に入ってみた≪テルポシエ興産≫では、確かに165年頃に翻訳数の番付表を作っていた。しかし個々の外注先までは把握していない、と事務員が頭を振る。
「どこに住んでた方? ファダンかぁ、そいじゃやり取りも配達だったはずでしょう。直接ここへ原稿届けてくれたような人なら、まだしも……。特にその頃は、ひと月十何人かに頼んでいたしね。悪いけど、とてもおぼえちゃいませんねぇ」
ファダンの旧ファートリ邸、床下にあった書類には、確かにこの≪テルポシエ興産≫あてのものがあった。ファートリ老侯がかかわっていたのは間違いないが、その名と存在とは他大勢の中に埋もれてしまっているらしい。アイーズは食い下がる元気もなくしていた。
「それで、翻訳依頼だけど。定期通商船の出るひと月半前から、外注できる翻訳書類が出てくるんだ。今は船が出たばっかりだから全然ないけど、その頃にまた来れば仕事を回してあげられるよ」
「ええ、折を見てまた参ります。どうもご親切に、ありがとうございました」
事務員にお礼を言って、アイーズは店の長台を離れる。
≪テルポシエ興産≫の地上階は広々としていて、玄関前に小さな卓子と腰かけが何組も置いてあった。そのうちいくつかは占領されている。次回の輸出入に関する商談をしている人々だ。
――船が出たばかりでも、こんなに商談をする人でにぎわっているくらいだもの。十年以上前に内職をしたヒヴァラのお父さんのことなんて、大量の人と物の流れに押し流されて、誰にもわからないわよね……。
当初はこれらの貿易業者をあたれば、ヒヴァラを連れ去ったティルムン業者の手掛かり、あるいはファートリ老侯の詳しい足取りがつかめるのではないか、とアイーズは踏んでいた。予想は外れて、ヒヴァラの父の名前すら埋もれてしまっている。
――むしろ、港のそばの個人輸入むけ業者のところで聞いた話が、一番有力な情報だった。あの小さなお店に、ふらっと入ってみてよかったわ。
商談客のいる一画を通り抜けて、≪テルポシエ興産≫の店を出ようとした時である。
「お嬢さん。落としたよ」
振り向くと、中年男性がアイーズの毛織丸帽を差し出してきた。
先ほど店内に入って取ったとき、小脇に挟んでいたのを知らぬ間に落としていたらしい。
「まあ、うっかりしてました。どうもありがとうございます」
「いいんだよ。……福ある日をね」
上背のあるその中年男性は、アイーズのために入口扉まで開けて待ってくれた。いい人である。
拾ってもらった帽子をかぶり直して、アイーズはさて……と思う。
もう正午だ。いいかげん、東区北区の境目にあるあの小さな宿に戻って、機嫌最悪のヒヴァラに向き合わなければならない。




