ヒヴァラが怒っちゃったわ! どうしよう
港湾組合事務所を後に、小舟の並ぶ波止場を通り過ぎる。先ほどの漁師たちはもういなくなっていて、広大なテルポシエ港はがらんとしていた。
「……ヒヴァラのお父さん。君を探しに、ティルムンまで行ったのね」
事務所の地下階にいた時から、表情を暗くかげらせて何も言わない。そんなヒヴァラに気を遣いつつ、アイーズは言った。
しかしヒヴァラは前を向いたまま、ぼそりと言う。
「それで、諦めちゃったんだ」
「ヒヴァラ……」
「あきらめて……。全部、俺のこと忘れちゃったんだ。たぶん」
今まで聞いたこともないくらい、低く悲しいかすれ声でヒヴァラは言う。
そこに怒りすら含まれているように思えて、アイーズは不安にかられた。どうしたのだろう、と思う。
「別の手段で取り返せないかって、作戦をたて直しに帰ってきたんじゃないのかしら?」
「だったら、少なくとも高地の兄さんのところに行ってるはずじゃないか。でも兄さんは一回こっきりしか会ってないって言ったし……。そのまま行方をくらました、だなんて。俺のこともそれまであったことも、父さんは何もかも嫌になって、放っぽらかしちゃったんだ。ぜんぶ忘れたんだ」
いけない、とアイーズは直感する。新しく知った事実に直面して、ヒヴァラは恐慌しかけている……。悪い方向にばかり考えをむけて、哀しみと怒りにのまれかけている!
「ヒヴァラ。疲れたわよねー、どこか入って休も……」
「アイーズだって、忘れてたろ!」
朗らかに持ち掛けたアイーズのはな声をさえぎって、ヒヴァラは言った。
「俺はぜんぶおぼえてて苦しかったのに。アイーズはプクシュマー郷の近くで俺に会うまで、俺のことなんかぜんぶ忘れてたんだろ!」
立ち止まり、きぃっと悲しげな目つきでアイーズを見下ろしながら、ヒヴァラは言う。
「マグ・イーレの母さんとこへ会いに行った時も、そうだったけど。アイーズはどうして、ありもしなかったような話をぺらぺら話せるの? さっきテルポシエ騎士の前でした話も、あんまり本当っぽく言うもんだから。俺こわくなったんだ、……アイーズは俺にも、いっぱい嘘だらけで話してるんじゃないのかい!」
いきなりの非難、面食らってアイーズはうろたえかけた。
「ななな何言うのヒヴァラ? わたし、君の謎を探るために演技してるだけじゃないの!」
いかにもな方便を思いつけるのは、翻訳業で数多くの物語に接しているからだ。単に、他人事情のねたが豊富にあるだけ。
「それに今日は、秘密のところを言ってないってだけで……。嘘らしい嘘なんて、ついていないわよ?」
「婚約者だとか、言ったじゃないか! 騎士がかってに勘ちがいしたんじゃなくって、アイーズが自分から言ったんだっ」
「あ~……」
ひょろひょろ儚げななりに激高しているヒヴァラと、狼狽をおさえつつ冷静対処をしようとしているアイーズ。ヒヴァラの頭巾ふちに入った小さなカハズ侯が、二人を心配そうに見ている。
「俺は沙漠のまんなかで、アイーズにさえ会えれば……。ファダンに帰ってアイーズに会いさえすれば何とかなる、ってそれだけにすがってたんだ。けどアイーズは、いなくなった俺のことなんてさっぱり忘れちゃってて、だからあの人のとこへお嫁に行くことになってたんじゃないかー!!」
必死に泣くのを我慢して、しぼり出すように言うヒヴァラの言葉がアイーズの胸の底をえぐる。
「アイーズの婚約者だったのは、ノルディーンさんだ。俺は代わりになれない、アイーズの彼氏にすらなれない、呪われ理術士なんだ……」
ぎゅっと顔をゆがめて、そっぽを向くようにヒヴァラは言った。
アイーズは懸命に反論する、……どうにかこうにか穏やかな声を取り繕って。
「……わたし。ヒヴァラとの約束、果たしたいのよ。君のこと、とっても大事だから」
ヒヴァラは目を閉じた。
「俺が消えて、またファダンでノルディーンさんに会えたら。あの人にも、おんなしことを言うんじゃないの」
怒りよりも、……ヒヴァラの奥底にあるはかり知れないものに触れた気がした。アイーズは息をのむ。
高いところにあるヒヴァラの顔が、深いため息をついた。
「……すごく眠いんだ。宿に帰ってちょっと横になりたいから、鍵もらえるかい」
「……」
アイーズは黙って、室の鍵を渡す。
「ありがとう」
機嫌は底辺のまま。ヒヴァラは受け取った鍵を外套かくしに入れる。
「……わたし、ファダンの家にお便り書いて送ってから宿に戻るわ。ヒヴァラはそれまで休んでて、……後でお昼、食べに行こうね?」
うんともいいやとも言わず、ヒヴァラはふらりとまわれ右をして、歩き始めた。
その背中があんまりしょぼくれて情けなく、切ない。走って追いかけて、有無を言わさず抱きしめてやりたかったけれど、アイーズはこらえる。
こんな風に言われるまで、ノルディーンののの字すら忘却の彼方だったのだが……。いま思えば、本当に少し前までの自分がたまらなく恨めしい。
嫌だいやだと思う世間体に丸めこまれ、条件をそろえて無難とした男との結婚を考えていたなんて。家庭づくりに逃げ込もうとしていた過去の自分を、アイーズは憎らしいとすら思う。
――大好きだった君が、ずうっとそばにいてくれれば。あんなばかなまねは、絶対していなかったはずなのにね……。
ふういっ、とアイーズの身体まわりにまとわりつく風がある。煙のように輪郭をもやもやにしたティーナ犬と、怪奇かえる男のカハズ侯だった。
『ヒヴァラのやつ、妙に落ち込みよるけどなー。俺ついとるし、気にすんなや? 蜂蜜ちゃん』
『そうですよ。ちょっと休めば、ヒヴァラ君の頭も冷えるでしょ』
「……ええ。悪いけど、ヒヴァラについていてあげてね。二人とも」
ティーナとカハズ侯が風のように消え失せ、ヒヴァラのひょろひょろした後ろ姿も≪港通り≫の方に見えなくなってしまった。
アイーズはため息をついて、辺りを見回す。さっき来るとき、≪みなと配達≫と看板を出している業者の店を見かけたはずだ。
そこでファダンの実家と、浜域の長兄アンドールに便りを書いて出そう、と思う。
さくら杖を手に、アイーズはのしのし歩き始めた。貫禄があっても、さびしい独りぼっちである。




