泳げるイリー人は、少数派なのよ!
「ヒヴァラってば。水軍もってるのは、我らがファダンだけよ~」
ファダンの港はここテルポシエと比べ物にならない狭さだが、一画に中型船の停泊する軍用域があった。
そこにきぱッと明るい水色の帆をたたんで、柱を天高く向けているのが全八艘のファダン水軍なのである。
内陸国のフィングラス以外、六つのイリー都市国家群は港に接する首邑に港を有していた。しかしテルポシエ以外はどこも規模が小さく、喫水の深い大型船を迎え入れることができない。植民後のイリー諸国とティルムンは、のちに開拓された海路によってつながれた。そして必然的にテルポシエが、文明発祥地からやってくる大型船を受け入れるイリー側の窓口となったのである。
こうしてテルポシエが対ティルムン貿易の恩恵を受けて繁栄するわけだが、一方でファダンは独自路線をとった。沿岸警備隊の域を超え、海上戦闘の行える水軍を騎士団内に創設したのである。
はじめは小型船を数多く有したが、領内の南北幹線路≪切り株街道≫の開拓と活性化に伴い、高地から質のよい木材を入手できるようになった。
これらをもって、ファダン宮廷はやや大きな船舶を製造。小回りの利く中型縦帆船に専門の武装騎士をのせ、イリー諸国の沿岸部を広く警邏できる、いわば水上の巡回騎士団を作り上げたのだ。今から約160年前のことである。
ファダン水軍は各国の沿岸警備隊と連携し、ひとたび不審船や海賊らしき影をみとめたならば、陸路をはるかに上回る速度で駆けつけた。ティルムン定期通商船の他、一般船の護衛も積極的に行っている。
昨今、東部大半島にては沿岸部への海賊襲撃が多発しているが、イリー海域においていまだ目立った被害は見られない。おそらくは、この≪イリー海の守護者≫ファダン水軍が目を光らせているおかげではないか、と言われている。
こんなに壮大な港ではあるが、テルポシエの発着船舶もファダン水軍の庇護下に置かれているわけだ。よってテルポシエの自前水軍も存在しない。そのことが一つの誇りとして、ファダンっ子アイーズの自尊心をくすぐる。
『う~みよ~~♪♪』
頭巾ふちでけろけろ喜んでいる小さなカハズと一緒に、晴ればれとした表情で港を眺めていたヒヴァラが、ふと苦笑いをして言った。
「……そっかぁ。俺がさらわれて、ここテルポシエからティルムン通商船にのせられたときも、考えてみればファダン水軍が伴走してたはずなんだよね?」
それを聞いて、アイーズは豊かな胸のうちをぎくりとさせる。……そうだ、ヒヴァラはここへ来るのが初めてではない。ヒヴァラにとっては、過酷な記憶のある場所に違いないのだ。
「……おぼえてるの? ここの港のこと」
「いやそれが、ぜんぜん。ファダン港からの小さな船で着いた時はもう暗かったし、そこまでで俺もう船酔いしちゃってたんだ。だから、渡し板を歩かされて甲板から船ん中の室に入って……ってあたりのことも、あやふやでほとんどおぼえてないよ」
「そう」
「けどなー。そうだよ、途中まで我らがファダン水軍が一緒だったんだよなぁ。いっそのこと船べりから海へぼちゃんと落っこちて、水軍に助けてもらってたら、俺の人生変わってたよねー」
『……ヒヴァラ君、泳げるのですか?』
外套頭巾ふちから、ヒヴァラを見上げて小さなカハズ侯が問うた。
「ううん、ぜーんぜんだめ! 今なら……そうだね、≪早駆け≫つかって何とか水面とべるかもしれないけど。その頃の俺は、浮けもしなかったはずさ!!」
「ちょっとヒヴァラー、それじゃだめじゃないのよっ。水軍に救助される前に、沈んじゃうでしょッ」
『えーと。ちなみにアイーズ嬢は、泳げます?』
「もちろん無理よ、カハズ侯! でもこう見えてわたし、実は浮けるの!!」
さわやか堂々言い切るヒヴァラと、貫禄たっぷりに豊かな胸を張るアイーズ。
なんでか自慢げに言う二人は見かけこそ全然違うが、思いっきり似たところがある……、とカハズ・ナ・ロスカーンは内心でほほえましく思っていた。
ちなみに彼は精霊になってから、湖において本物のかえる達と長く接していたため、泳げる。
アイーズとヒヴァラが何かのはずみで水中に溺れてしまったら、得意の平泳ぎにて駆けつけ助けてやらねば、とも心優しく考えていた。危機管理能力は高めの怪奇かえる男だ。
港には、ちらほら人の集まりも見えた。朝の水揚げはとっくに終わって、魚屋などの専門業者らしいのはもういない。しかし個人客むけに少量を分ける漁師たちが、ところどころに大籠の中身を広げている。
「はまうりだよ、はまうり! 昨日の嵐の後だからね、とびきり良いのが海からとび出してきたのさぁ」
「いいねえ。今夜のおつゆにするんだ、十ほどおくれな。おにいちゃん」
漁師のにいさんと客のおばさんたち。通りすがりにちゃきちゃきしたやり取りを耳にして、アイーズの心はおどった。
――そうだわ、今日ははまうりがおいしい日!
ここがファダン港だったなら、アイーズは迷うことなく籠ひとつ分買っただろう。ヒヴァラと手分けして持ち帰って、砂抜きをして。家にあるいちばん大きな鉄鍋で、母に煮てもらおう……。
ぷっくりつやつや光る白い身の二枚貝は、アイーズの好物のひとつだ。思わず夢みるような表情で微笑んでしまう。そんなアイーズを見下ろして、ヒヴァラもまたゆるーく目を細めた。
「うっとりして、どうしたの」
「ふふふー、何でもないのよ。……おっと、ここが事務所の入口……正面玄関ね?」
港の中央部、大きく空いている波止場の正面にそびえ立つ、石造りの建物前に二人は来ていた。重厚な黒木の扉の上、≪テルポシエ港湾組合事務所≫と刻まれているのが見える。
出てくる人がいて、その後二人は開いたままの扉をくぐった。




