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翻訳士のスキル大発動よ、任せて!

 ヒヴァラの旧実家、現・揉み療治師のところを辞した四人は、市内壁ぞいの空き地に足を向けた。


 そこに置いてある長床几しょうぎのひとつに、回収してきた書類を並べられるだけ広げてみる。


 ナーラッハがうち何枚かを手に取ったが、すぐに眉間にしわを寄せた。



「うわぁ……。こりゃ全文、完全にティルムン語じゃないか。俺にはお手上げだ」


「アイちゃん、どうだ?」



 父がだみ声で聞いてきた時、アイーズは全速力で視線を書面左右に走らせていた。二枚目、三枚目……次々に手に取り、読んだものを重ねてゆく。


 ナーラッハの言う通り、書類はすべてティルムン語で書かれていた。アイーズ達の母語である正イリー語とは、見た目からして大きく異なる。


 とはいえ、二つの言語はもともと同じものだった。いいや、ティルムン語から生れ出たのが正イリー語なのである。


 約三百年前、アイレー大陸の西方にあるティルムンから、≪白き沙漠≫を越えてきた集団があった。断罪されて砂の海の真っただ中に置き去りにされ、絶望的な状況にあった人びとは、≪黒羽の女神≫に出会う。その加護を受けることで渇死をまぬがれ、励ましあって沙漠を歩き渡り、森ふかき山脈を越えて、とうとう緑うるおうこの南海沿岸部にたどり着いたのであった。


 その人々こそが≪イリー始祖≫、現在都市国家群を栄えさせているイリー人……すなわちアイーズたちの、ご先祖様がたである。つまりイリー人とは、ティルムン人の派生なのだ。


 当初、彼らのたずさえてきた言語は純にティルムン語だったが、数世紀を経て言葉は違う生き物のように姿を変え、進化した。イリー世界のさらに東方、東部大半島に先住していた≪東部ブリージ系≫の人々の固有文化とぶつかり、交流し、時に融合して、その独特の世界観を取り込んだ。つくりの異なる世界をあらわすために、言葉も少々つくりを変えたのだ。


 冷涼なイリーの気候に合わせて開放的な発音はくぐもりがちになり、なだらかな抑揚に取って代わった。話す速度もごくゆっくりになる。そうして今の正イリー語が出来上がったのだ。


 書き言葉も大幅に進化した。とにかく正イリー語のつづりは長い。文字配列を装飾のように並べ連ねるから、同じ意味の文章がティルムン語表記の倍の長さになる。アイーズの翻訳する本も、一巻こっきりのティルムン原本が、イリー版では上下分冊になるのが普通だった。



「……ざっと見たところ、ぜんぶ納品書だわ。これ」


「納品書? 品物は何だいね?」


「ほとんどは、栗の粉。それも膨大な量よ。あとは、栗きんとんの瓶詰めだとか、干し栗なんかの保存食もちらほら混じっている。それが毎回、ティルムンの商人たちに買われて、テルポシエから定期通商船に積み込まれていったみたい」


「……何、それ? 栗って……。ヒヴァラ君、お父さんはこのこと話してたかい?」


「いいえ……。ぜんぜん聞いたことないです」



 不可解のどん底に落とされました、と言いたげに困惑しきった様子で、ヒヴァラは首をひねっている。



「たしかに、うちのとうさんは仕事でティルムン語の翻訳にたずさわってました。でも、そんな貿易っていうか……。いろんな品物のやり取りや、商売のことなんて。うちでは話したこと、一度もなかったです」



 ヒヴァラの困り顔を見上げながら、アイーズもうなづいていた。


 そう。ヒヴァラの父と言う人は、ファダン宮城きゅうじょう勤務の文官騎士だったと聞いている。修練校でヒヴァラがティルムン語に秀でていたのも、父親が堪能だったおかげらしい。


 しかしファダン人は、直接ティルムン商人と接することはほぼないのだ。数か月に一度、西方文明発祥地とイリー世界を行き来する定期通商船は、東端の都市国家テルポシエの大きな港に発着する。しぜんテルポシエの業者がその受付窓口を独占してしまうから、ファダンに流通してくるのはテルポシエの仲介をへだてた輸入品ばかりだった。



「とうさんがしてたのは、向こうの……えっと、情報雑誌とかを下読みして。それでティルムンでどういうことが起こっているのか、いろいろ調べる仕事でした。でもそんなに、えらい役職でもなかったと思うんです……」


「ね、ヒヴァラ。これって、君のお父さんの筆跡じゃないの?」



 アイーズが筆記布の一枚を差し出すと、ずいっとヒヴァラは後じさった。何だか不自然な動きである。


 こわいもの、嫌なものを恐る恐るのぞき見るような、妙なぎこちなさで書面にふっと目をやると、ヒヴァラは言った。



「わからない……。違うのかも」


「そう?」



 なんだか変だなと思ったが、まあ筆跡などは一見しただけではわかりにくいことも多々ある。アイーズは突き詰めず、父とナーラッハに向き直った。



「お父さん、ナーラッハおじさん。これはわたしが持ち帰って、じっくり読んでみてもいいかしら? 日付はヒヴァラがさらわれた時期の前後みたいだから、時系列に並べてみたら何かわかるかもしれないわ」



 とび色髪をふあんと揺らし、丸顔をきりりんと真剣に引き締めて提案するアイーズに、巡回騎士二人はうなづいた。



「んだな。うちの北町詰所に、アイちゃん以上にティルムン語が読めるやつなんざおらんし」


「それに、ヒヴァラが手伝ってくれるわ。そうよね?」



 いなくなってしまう前まで、ヒヴァラはアイーズよりずっとティルムン語ができたのだ。加えて現地に長く住まわされたのだから、当然読み書きもばっちりだろう……。そうとしか思わなかったアイーズは、ヒヴァラを何気なく見上げて言った。


 しかしヒヴァラは、ぎゅっと委縮したような、おびえた様子でいる。



「? ……どうしたの?」


「ごめん、アイーズ。俺……」



 もぞもぞと言いにくそうに、ヒヴァラはうつむく。



「ティルムン語、読めないし書けないんだ……。修練校までで習ったつづりとか、全部忘れちゃった」


「ほが」


「え、なんで……?」



 おじさん巡回騎士二人の問いが重なる。



「沙漠の家では、読んだり書いたりは禁止されてたんです。俺たち」


「でもヒヴァラ。そこではティルムン語を勉強させられていたって、言ってたわよね……?」


「うん。声に言葉をのせて言って、ってだけの勉強」



 小さな丸いヒヴァラの瞳が、あわれっぽく瞬いてアイーズを見る。



「ひたすら詠じて、唱えて、ってばっかり。ずうっとやらされていたんだよ」



 ヒヴァラの瞳が際限なくかげってゆくことに気付いて、アイーズは思わず彼の左肘をそっと押さえた。心配しつつも、豊かな胸のうちでは声高に突っ込みを入れている。



――どういう奴隷生活なのよ、それ!? 搾取者はいったい、何を考えてそんなことをさせていたの!?



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