いわしのお酢煮でごはんがすすむわ~
宿の夕餉は質素に杣麦粥だったが、いわしの酢煮がついていた。
海鮮ものの大好きな典型ファダンっ子、アイーズとヒヴァラには全面降伏するしかないおいしさである。
「……危険ね、このいわし」
「うん。おかゆが進みすぎる」
ただでさえ大量に食べるヒヴァラが、さらに食欲をそそられていた。
酸味のおだやかな若いりんご酢で煮られた旬のいわしは、滋味ぶかく骨までやわらかい。
たっぷり食べて満足して、やはりアイーズは強烈な疲れをおぼえる。
よく考えてみれば、ファダン浜域の長兄アンドール宅からここテルポシエまで、けっこうな距離を御してきたのだ。疲れて当たり前である。
「ここはマグ・イーレの宿みたいに、仕切りがないから。ふたつ寝台の間に、草の壁じきりを作ろうか?」
小さな炉があるし、調度や寝具は良いものがそろっている。あのうすら寒い西国の宿のように室内天幕を張る必要はなさそうだったが、一応ヒヴァラも何となくアイーズを気遣ってくれているらしい。着のみ着、外套巻きで横になる野宿天幕とは都合が異なる。
「うーん……。と言うよりわたし、草編み天幕の方がいいかしら」
「じゃあ、これはどうー?」
ヒヴァラが早口で詠唱するとともに、床からするりと白く光る草が生えのぼる。ふちに腰かけたアイーズごと、大きなまるい草の繭が寝台をくるんだ。
「あ、いいかもね!」
「せまいけど。頭、天井にくっつかないかい?」
「わたしの背丈なら大丈夫よ。余裕しゃくしゃくだわ」
小さきことは、時に有利でお得である。
「そう?」
にゅう、とヒヴァラのやぎ顔が草壁にまるく浮いた。どこにも扉はなく穴もないが、どこからでも出入りできる便利な草天幕。
アイーズは立ち上がって手を伸ばし、低い草天井に触れた。
「ほらね。背伸びしなきゃ、手もつかないわよ」
その手を下ろしざま、ヒヴァラの頬ぺたにのせて、離す。やぎ顔がきゅっと笑った。
「何かあったら、言いなよ!」
・ ・ ・ ・ ・
夜半の雨は、ずいぶん強いようだった。けれど厚い壁の向こうに聞く雨音はどうしてなのか、まったき静寂と同様に心を落ち着かせる。むしろ、安らかに眠りゆく人びとを守るもののように聞こえた。
雨に喜ぶカハズ侯は、夜の間テルポシエ散歩に徹すると言う。鎧戸の隙間から、ふわりと出て行ってしまった。
「でもこの雨音だったら、ヤンシーお兄さんと一緒の室でも安眠かなー」
灯りを消した、真っ暗闇の草壁むこうでヒヴァラの声がした。
「はあ?」
「ファダン≪切り株街道≫の宿場町……リメイーの町だっけか。俺とヤンシーお兄さん、同室だったじゃない? 本人も言ってたけど、寝てる時のおならが、すんごい爆音なんだ」
あはっ、とアイーズは毛布の中で笑った。
「そうそう、小さい頃からそうなのよ。わたし六つまではヤンシーと同じ室に寝てたから、わかるわー」
「寝入りばなと夜明けあたりに、すごいの一発ずつするんだ。俺はびっくりしてとび起きたんだけど、お兄さん自分では気がつかないで、ふうすか寝てるんだもん」
「災難だったわねー」
しかし早朝番で夜明け前から勤務する日は、その朝の一発できりっと目覚めるらしいのだから大したものである。元不良兄。
「ある意味……いいや。いろんな意味で、すごい人なんだ。ヤンシーお兄さんは、めちゃくちゃかっこいいぞ」
草壁にさえぎられて声しかわからないが、ヒヴァラはまじめに言ってるのだろうかとアイーズはいぶかしむ。
「あんな風に、俺もかっこ良くなれたらな~!!」
「……限りなく現役に近い元不良なんだから。ヒヴァラ、ヤンシーなんかに憧れちゃだめよー?」
「ええー? いいじゃないかぁ」
「はいはい……。お休み、ヒヴァラー」
疲れに押されて、アイーズは深く眠ったらしい。
どっしりと思い闇の中に落ち込んでから、ふわりと浮かび上がるような気がした……。
ふと気づけば、まわりはもう明るい。
プクシュマー郷の狩猟小屋……日の当たる南側の外壁にならべて置いた長床几に、なぜかアイーズはひとりで座っていた。
小さな井戸にはいつも通り、きちんとふたがかかっている。その脇にあるりんごの樹には、白い花が雪のように積もり咲いていた。
――あらら……?
ぼんやりと、アイーズはまばたきをした。今年のりんごの花は、もう散ったはずなのに。
『蜂蜜ちゃん』
長床几の右脇を見ると、ふさふさした垂れ耳を揺らして赤毛のルーアが……いいや。その姿をまねて犬になったティーナが、三白眼の上目づかいでアイーズを見上げている。
「……ティーナ?」
『ごめんな。ヒヴァラにあんまし聞かれたくないし、蜂蜜ちゃんの夢ん中に邪魔しとんねん』
「夢……」
ああそうか、とアイーズは納得する。だからこんなにぼんやり、気持ちよいのだ。
『草天幕ん中で蜂蜜ちゃんとぺっとり密談しとったら、あいつ激おこ必至やかんなー。ああ、それともヒヴァラの身体でぐぐっと迫ったほうがええかぁ?』
アイーズは笑って、ティーナの頭をなでた。
「今の方がいいわよ」
ティーナの三白眼も笑う。
『……な。蜂蜜ちゃんは、ヒヴァラのこと悪くないて思うてんの? あのひょろひょろが、好きなんかい』




