つ、ついにヒヴァラが迫ってきたわ?
だいぶ北区よりに行ったところ……。いや、すでに北区内なのかもしれない。
狭いが明るい路地裏に、小さな構えの宿屋を見つけて、二人は入ってゆく。
ここまでに通り過ぎたいくつかの大規模宿屋では、イリー語とティルムン語で看板が出ていた。ここはイリー語のみ、国内客むけなのかもしれない。そこそこ設備もそろっている割には、そんなに高くもなかった。ヤンシー基金で余裕の滞在ができそうである。
こぢんまりと質素な室に通された時、仲居さんが小さな暖炉に火を入れていった。
アイーズはその前に立ち、丸帽をとって鳶色巻き髪をふあん、と振る。
「ヒヴァラの≪乾あらい≫のほうが気持ちいいけど。こういう炉も、やっぱり良いわねー」
だいぶ雨に湿ってしまったふくろ外套を、炉の近くの鉄柵に広げるつもりでアイーズが脱ぎかけたとき。
高いところから自分を見つめている強い視線に気づいて、アイーズはどきりとした。
暖炉の炎、だいだい色が照らしつけているけれど、ティーナではない。
まぎれもなくヒヴァラ自身が、おそろしくまじめな……悲壮と言える切なさをまるい瞳いっぱいにたたえて、アイーズを見下ろしているのだ。
かがみこむ顔がすぐ近くに迫って、低くささやく。
「アイーズ」
いつもの呼び方と違う、かすれるような声でヒヴァラは言った。
早口ではないけれど、理術の詠唱をするときの、あの底から響いてくるような低くかたい声が、アイーズの胸の奥を揺さぶる。
ひょろろーんと長ほそい手が大きく広がって、そうっとそうーっっとアイーズの左頬に触れた。ざらっとかたい、やさしい手だった。そのうちのやさしい親指が、つういとアイーズの左目元をなぞる。
「どうしたの。泣いちゃって」
一瞬ぽかんとして、……アイーズはまばたきをする。
「それ……。涙でなくって、雨なんだけど」
ふ・しゅ~~!!!
すぐ近くにあったヒヴァラの顔から、みるみるうちに緊張と悲壮が抜けて、やわらか癒し系のやぎ顔にもどった。
「ひゃーん、焦ったぁぁぁ! 俺てっきり、アイーズが何かつらいのかと思っちゃってぇ」
前髪から目元につたった雨の水滴を、アイーズが泣いたと思い込んだらしい。
「何言ってるのよー。わたしが泣くわけ、ないじゃないの」
真剣にぐらぐら来てしまったことの照れかくしで、アイーズはいつものおもしろ調、はなにかけた声でおどけてみせた。
「だよねぇ。前からアイーズは、わたし泣かないんだってずっと言ってたもんね……。で、今も泣かないんだ~?」
やはり濡れてしまった砂色外套を鉄柵の上に引っかけながら、平和な声でヒヴァラも言った。安堵した様子なのは、つまりそれまで本気でアイーズの涙を心配していたということなのだけれど。
「ふん。一度だって泣いてないわよ。泣くより先に、ルルッピ♪ドゥで気分をあげて開運だわ。そうでしょヒヴァラ? はい♪ルルッピ♪」
「♪ドゥー♪ そうだよねぇ。で、ごはんどうする?」
緊張去りし今、ヒヴァラの意識を支配しているのは食い気であるらしい。
「もう、地上階の食堂があいてるって女将さん言ってたけど。たしかに受付台のあたりでも、すてきな匂いがしていたぞ。……なんというか、やわらかめにすっぱい感じのが」
目ざとい耳ざといとは言うが、鼻ざといとも言うのだろうか。
アイーズは何もにおいを感じなかったというのに、この辺のヒヴァラの食べもの察知力は驚異的である。マグ・イーレでにおい追跡をしてきたディルト侯配下と、いい勝負なのではとアイーズはふと思った。
「うーん……。わたしもお腹すいてきたんだけど。ちょっと疲れてるし、食べおわったら即ばたんきゅう、になりそうよ。先に、ささっと洗い場行っちゃっていい?」
「了解であります、アイーズ軍曹。じゃあその後に≪乾あらい≫するね」
のしのし洗い場に向かって廊下を歩きつつ、アイーズは深呼吸をくりかえした。
――うーむ! ついに迫られたかと思っちゃったわー!!
移動中はずっとミハール駒の上でくっついているわけだし、ヒヴァラとの近しい距離感が心地よいことはもうわかっていた。そうしていても大丈夫なのだ、という安心感さえアイーズは持っている。だから今みたいに、ふいにまじめな男性の顔でせまられると、アイーズはどきりとするしかない。
たぶんヒヴァラ自身は、あの遠い日別れた頃の感覚のまま、アイーズに接しているだけなのだろう、とも思う。善良なる好意……。
彼氏になりたい、というのだって何だかあまりに純すぎる。もしかしてひょっとして、自分は女性に見られていないのだろうか。いや、それはさすがに……悶々。そういう疑問すら、アイーズの豊かな胸の中をよぎることが時たまあった……。
――でも、まあ。それを言ったら、わたしがヒヴァラのこと好いと思ってるのも、あの頃の延長なのかもしれないし、ね……。あーあ、嘘ついちゃった。
そう、アイーズは嘘をついた。泣いたことなんかない、と言うのは大噓だ。
たしかに人前で泣いたことはない。
けれど大好きだった少年が彼女の日常から消えてしまった後、アイーズは毎晩こっそり、音をたてずに寝床の中で泣いていた。
かなしくて寂しくて切なくて、失ったものを想っては、ぽろぽろぐすんと涙をこぼしていたのだ。
なくした存在が、アイーズにとってもっとも惜しいヒヴァラだったから。




