えんとつ先からみた世界
「はい。ここ」
ねまきの上に来ている砂色外套のすそを風にはためかせて、煙突の先端にすたりと立ち、ヒヴァラはアイーズの頭に鼻を寄せてささやいた。
それでアイーズは、思わず閉じていた目を開けてみる、……。
何もなかった。
暗闇の中に地と空とが二極化していて、ぽつんぽつんと人家の灯りが見える。
トゥーヒユは小さな町だし、人々もファダン大市住民のように宵っぱりではない。概して暗かった。……が。
星を白くまぶした空が森や林の黒にとけこむところで、まったく別の輝きを放っているものがある。五つ沼の水面だった。
『きれいですよね、不思議ですよねぇ。それではわたくし今回分の見納めに、夜じゅう沼の上を浮いてきますので……。ヒヴァラ君、また明日。お休みなさい、アイーズ嬢』
けろけろ優しい調子で言うと、怪奇かえる男はふわーり、と二人のまわりを一周した。そのまま輝く沼の方向へ、宙を跳ねるように浮いて行ってしまう。
「またねー。かえるさん」
「カハズ侯~~」
やっぱり怖いのが続行中、アイーズは怪奇かえる男にそばに浮いていて欲しかったのだが……。
ヒヴァラはアイーズを抱いたまま、すとんと煙突先に腰かける。
「昼とは、ちがうんだ」
ぽそり、とヒヴァラは言った。
「青は青、緑色はみどりなんだけど……。それでも朝のうちの青、ひるの青でもない。夜の青なんだ」
ヒヴァラの砂色外套生地にしがみついたまま、アイーズも闇に浮かぶ沼を凝視してみる。
アイーズはあまり夜目もきかないし、ヒヴァラに比べたら視力の届く範囲もぐっと狭まっていると思う。しかしヒヴァラが言った通りに、沼が夜の姿をしていることは何となくわかった。
「ほんとね。……と言うか、どうして夜の間もあんなに輝いているのかしら? 星明りを映してるってだけじゃないみたい」
こわごわ言っているうちに、アイーズは自分でも摩訶不思議に思えてきた。
「一番手前の翠玉の沼は、くじゃく石の色になってるけど……。それでもやっぱり、光ってる」
「だいだい色だったやつは、アイーズの髪っぽくなってるしね」
冷たい外気の中にいるはずなのに、アイーズは寒さをおぼえない。
くっついているヒヴァラの砂色外套が、それ自体の熱を放っているかのように温かかった。これもティーナのおかげなのかしら、とアイーズは思う。
「……沼そのものが、光ってるってことなのかしら? 陽光だとか月や星や、他の光るもの関係なしに」
アイーズは視線を近くに、ものすごく近くに戻して、ヒヴァラのやぎ顔を見上げる。短い髪を赫くくゆらせて、ヒヴァラはまじめな表情でうなづいていた。
「うん。そうなんだと思う。沼の水なのか、泥なのかわかんないけど。きらきらしているのは、とにかく沼そのものなんだ」
「そうね」
アイーズは、相槌を打つ。
「どんな風に照らされても、見え方が色々と違っていても。沼そのものの本当の姿、本当の光り方はたぶん変わらないで、ずうっと同じなんだわ」
自分がどうしてそんなことをすらすら言うのか、……何となく不思議な気持ちではあったけど、とにかくアイーズは素直にそう口にした。
「変わらずに、ずっときれいなのよ」
「うん。きれいなんだ」
ほんとの間近に顔を見合わせて、二人はうんうんとうなづいた。
「気に入ったかい」
「ええ。でも明日早いし、そろそろ帰営して寝ようか」
「了解であります、軍曹」
じゃあ、と立ち上がりかけるヒヴァラにアイーズは言ってみた。
「……わたしの室の窓枠まで、≪早駆け≫でひとっ跳び~ってわけにはいかないのー?」
「いけるよ。でも下に落っこちるし、風びゅんびゅん切るの、ずっとおっかなくない?」
「……見ないようにしてるから。跳んじゃって、ヒヴァラ」
ひょろんとしたヒヴァラの胸に、アイーズはまる顔を埋めた。
ふあーん!
頼りなさげにして、はかなげな薄い胸ではある。
しかし。
宙に浮いた瞬間、唯一アイーズを支えるものとしてのヒヴァラは、十分に心地よかった。やさしくて柔らかくて、のどかで温かかった。
……そしてアイーズは自分に突っ込む。
――わたしがヒヴァラから熱をもらっちゃって、どうするのよー!? 逆でしょ、逆ー!!
もう二度と離したくないものにふかふかとしがみついて、……そこにアイーズは実は、照れもかくしている。




